【第19号】トリチウムは怖くないけれど…〈読者アンケートあり〉

ニュースでよく耳にする「トリチウム」とはどのような物質なのか
金谷一朗(いち)
2021.04.23
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いちです,おはようございます.

2011年の東日本大震災で事故を起こした福島第一原子力発電所周囲の「汚染水」の処理を巡って,先週政府から発表がありました.汚染水から放射性物質を除去した濃度約100万ベクレル/リットルの「処理水」を100倍以上に希釈して海洋放出するというものです.この処理水は,汚染水から様々な放射性物質を取り除いたものとされていますが「トリチウム」は除去しないことが明示されています.

汚染水からトリチウムを除去しなくて良いのでしょうか?

そもそもトリチウムとは何なのでしょうか?

今週は,放射能とトリチウムの話題を取り上げます.

トリチウムとは?

トリチウムという名前は人体に有害な金属の「リチウム」とよく似ていますが,全くの別物です.トリチウムは英語ではtritiumで発音は「トゥルィリアン」に近いのですが,リチウムは英語ではlithiumで「リシアン」に近いです.異なる外来語が似てしまうのは音素が少ない日本語の宿命かもしれませんね.

このトリチウムは「水素」の仲間,というよりは水素そのものなのですが,放射線(後述)を放出する能力,すなわち「放射能」を持っています.そこでまず,水素としてのトリチウム,そして放射性物質としてのトリチウムについてお話していきましょう.

大事なことなので何度もでも繰り返したいのですが,トリチウムは水素です.水素と言えば「水(みず)の素(もと)」ですよね.水分子はご存知の通り水素2個と酸素1個が結合したものです.

水分子のイメージ.赤が酸素,白が水素を表す.
水分子のイメージ.赤が酸素,白が水素を表す.

水に無理やり学術名をつけると「ヒドロゲンヒドロオキシド(HH)」または「ジヒドロゲンモノオキシド(DHMO)」となりますが,学者がこの長ったらしい名前で水を呼ぶことはありません.トリチウムも本来の学術名は「ハイドロジェン・スリー」(英語読み)または「三重水素」なのですが,トリチウムのほうが短いのでこちらが定着しています.

水分子は水素2個と酸素1個で出来ているので個数比で言うと2:1ですが,水素に比べて酸素のほうがずっと重いので,重量比は1:8になります.なお水分子のような小さな分子や原子は日常感覚から見るとあまりにも小さく軽いので,重さはグラムではなく「ダルトン(Da)」という単位で測ります.1ダルトンはおおよそ

1Da = 0.000,000,000,000,000,000,000,000,001,661kg

という関係にあります.なんて小さいのでしょう.キログラムを医薬品やサプリでよく使われる「ミリグラム(mg)」に変えても,おおよそ

1Da = 0.000,000,000,000,000,000,001,661mg

と,あまりぱっとしません.実は国際単位系では「ヨクト(y)」という補助記号(接頭辞)を用意しています.ヨクトグラム(yg)はミリグラム(mg)をさらに7回1/1000にしたもので,これを使えば,およそ

1Da = 1.661yg

と現実的な桁数になります.国際単位系ではヨクトよりも小さい接頭辞を用意していないのですが「もうこの辺で十分」ということなのでしょうね.1ヨクトは漢字文化圏では「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」というなかなかに格好いい名前で呼びます.偶然にも,涅槃寂静のほうも漢字文化圏で最小の数値を表します.

一般的な水素原子の重さは1ダルトンまたは1.661涅槃寂静グラムで,水分子には水素原子が2個,それに重さが16ダルトンの酸素原子が1個くっついていますから,合計18ダルトンということになります.

さて,話をトリチウムに戻しましょう.トリチウムは和名を「三重水素」と言って,他の性質はだいたい水素と同じなのですが,重さだけが通常の水素の3倍の3ダルトンあるのです.増えた重さはの理由は「中性子(ニュートロン)」という,それ自身は無害で短命な粒子のせいです.

水素(左)デューテリウム(中央)トリチウム(右)の模式図.図中pは陽子,eは電子,nは中性子.<a href="https://terpconnect.umd.edu/~wbreslyn/chemistry/isotopes/isotopes-of-hydrogen.html">メリーランド大学</a>
水素(左)デューテリウム(中央)トリチウム(右)の模式図.図中pは陽子,eは電子,nは中性子.メリーランド大学

通常,水素原子は陽子(プロトン)1個と,電子(エレクトロン)1個から出来ています.水素の重さは1ダルトンでしたが,その重さの99.9パーセントは陽子の重さなので,陽子の重さを1ダルトンだとしても差し支えありません.

中性子は陽子と同じく1ダルトンの重さを持っていて,ときたまどこからともなくやってきて水素原子の陽子にくっつくことがあります.なんか女に言い寄る悪い男のようですね.いや中性だったか…中性子も重さが1ダルトンなので,中性子1個がひっついた水素原子は2ダルトンの重さになります.この体重2倍の水素を「デューテリウム」または「重水素」と呼びます.デューテリウムは珍しいというほどではなく,地球上の水素全体の0.015パーセントほどが中性子1個付き,つまりデューテリウムです.

デューテリウムは中性子が余分にくっついたとはいえ,水素は水素ですから,酸素とくっつけば水になります.デューテリウムがくっついた水分子のことを「重水」と呼びます.重水で作った氷は普通の水(軽水)に浮かべるとその重さで沈みます.

重水は動植物に吸収されにくいため,動植物に「死ぬほど」大量に与えると有毒になります.重水は通常の水と見かけが変わらないため暗殺にも使えそうですが,重水を使った暗殺事件はいまのところ報告されていません.〈追記:重水は「甘い」そうです.〉

このデューテリウムにもうひとつ中性子がくっついた場合,すなわち陽子1中性子2がくっついた水素原子がトリチウムです.

デューテリウムは安定した物質だったのですが,トリチウムはデューテリウムと違い,放射線を放出して「ヘリウム3」という別の原子に「変身」します.ヘリウム3は安定した物質で,これ以上変身することはありません.この変身は,正しくは「崩壊」と呼びます.

放射線

放射線とは,目に見えないビームの一種です.ビームとは粒子の流れのことですが,光の流れすなわち光線もまたビームに数えることもあります.光線は英語では「レイ」と言いますが,フォトンビームとも言います.「レーザービーム」も光線なので,正しくは「フォトンビーム」ですね.

放射線は,どのような粒子のビームかで種類がいくつかにわかれます.有名な放射線にはアルファ線,ベータ線,ガンマ線,中性子線があり,ほかにマイナーな種類もいくつかあります.本稿で取り上げるのはこれらのうちアルファ線とベータ線だけですが,ご興味のある方はウィキペディアなどで検索してみて下さい.

トリチウムが放出する放射線はベータ線です.ベータ線は何のビームかというと,電子のビームです.そう,水素を構成する「超」軽い粒子でしたね.電子ビームというのは透過力が弱く,とりわけトリチウム由来の電子ビームは水中を1ミリメートル程度しか進むことが出来ません.したがって「処理水」に含まれるトリチウムから出てくる放射線は,処理水がタンクにある限り大きな問題にならないのです.

では,トリチウムを含む水を自然界に放出するとどうなるでしょうか.

それを知るには「放射能」と「被爆量」というふたつの考え方を学ばねばなりません.

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