カリコー・カタリン博士の信念の戦い【第38号】

新型コロナウイルス感染症への切り札「mRNAワクチン」の開発の物語
金谷一朗(いち) 2021.08.27
誰でも

【140字まとめ】モデルナとファイザー&バイオンテックが新型コロナウイルス対策用に開発したmRNAワクチン.その背後には,一人の女性研究者の孤独な戦いがありました.今週はそのカリコー・カタリン博士にスポットライトを当ててお送りします.

いちです,おはようございます.

先週お送りした【第37号】の「あとがき」でワクチン接種のお話をさせて頂きました.僕が受けたのはモデルナのワクチンなのですが,日本ではいまファイザー&バイオンテック(ビオンテック)のものと,モデルナのものが主に使われています.

両社ともmRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンと呼ばれる種類のワクチンを提供しています.今週はこのmRNAワクチンの開発に向けて孤独な戦いを続けた,一人の女性研究者にスポットライトを当てます.

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ワクチンて何だっけ?

ワクチンはウイルス感染症に対抗するための手段です.ワクチンは人間の体に「抗体」を作らせることで,免疫を獲得させます.免疫を獲得した人間は対応するウイルスに感染しにくくなり,また感染後の重症化も抑えられるようになります.

ワクチンの始まりは10世紀の中国に遡ると考えられています.天然痘に一度かかり,かつ運良く回復した人間は二度と天然痘にかからないことが当時知られていました.そこで,天然痘のかさぶたを乾燥させたものを接種して,あえて軽度の天然痘に感染することで,天然痘を予防したのです.もっともこの方法は,軽いとは言え天然痘に感染するわけですから,危険でもありました.

天然痘は天然痘ウイルスによって感染する病気で,致死率が20パーセントから50パーセントと見積もられる非常に危険な感染症です.紀元1141年に没したエジプトの王,ラムセス5世も天然痘によって亡くなったそうです.

当時はもちろんウイルスのことなど知られていないのですが,人類対ウイルスの長い戦いはすでに記録されていたのですね.

18世紀半ば以降,牛の病気である牛痘にかかった人間は天然痘に罹患しないことがわかってきました.イギリスの医師エドワード・ジェンナーは牛痘の膿を使って被験者を意図的に感染させ,その後天然痘の膿を接種し,牛痘の膿が天然痘の予防効果を持つことを実証しました.これが「種痘」の始まりです.

種痘によって,天然痘は人類が最初に撲滅した,そして今の所唯一の,感染症になりました.なお,ジェンナーが使った牛痘の膿に入っていたのは,牛痘ウイルスではなく「ワクシニアウイルス」という別の種類のウイルスだったと言われています.種痘に用いられた「痘苗」は人間に打って運ぶということがされてきたため,ある意味「秘伝のタレ」と同じで,もとが何だったのかわからなくなっているのだそうです.

天然痘は撲滅されましたが,将来のバイオテロや未知の感染症に備えて,ワクシニアウイルスの生産は維持されています.

カリコー博士

カリコー・カタリン博士 (<a href="https://www.npr.org/2020/12/18/947638959/if-covid-19-vaccines-bring-an-end-to-the-pandemic-america-has-immigrants-to-than">npr</a>)
カリコー・カタリン博士 (npr)

1990年,ハンガリー出身の生化学者カリコー・カタリン博士(カリコーが苗字)はmRNA(メッセンジャーRNA)を使った治療に関する研究助成を申請しました.当時彼女はペンシルバニア大学ペレルマン医学大学院の研究助教 (research assistant professor) だったのですが,順調に行けば教授になるコースにいました.

しかし,彼女の研究助成金申請は企業や政府から拒否され続け,ついに1995年にはペンシルバニア大学から降格(demote)を言い渡されます.大学としては,より助成金の得られやすい研究テーマに変更してもらいたかったのでしょう.しかし彼女は研究テーマ変更を拒否し,降格を受け入れます.

彼女自身は語っていないのですが,助教は正規の教員の中では最低ランクなので,その下となると非常勤になります.同大学の教員リストを見てみると,非常勤助教 (adjunct assistant professor) というポジションがあるため,おそらくはこのポジションに落とされたのでしょう.一般的に言って,大学は降格の代わりに解雇を言い渡すものなので,それなりに温情措置とは言えるかもしれません.

と,ここまで書いて思い出したのですが,実は僕も降格を受け入れたことがありました.僕の場合は,南極に勤務するか降格を受け入れるかの選択だったのですが…いま思えば南極も良かったかなあとも思います.喉元過ぎれば熱さ忘れるという事かもしれませんが.

ともかく,1995年は彼女にとって悪夢の年でした.彼女の夫はハンガリーから出国できず,彼女自身もがんを宣告されていました.

彼女はそれでも粘り続け,1997年,着任したばかりのドリュー・ワイスマン教授と知り合います.出会いは大学のコピー室で,偶然でした.彼女はmRNAを用いたワクチンの構想をワイスマンに話し,共同研究を始めます.

mRNAは細胞の中のさらに細胞核の中にあるDNAから遺伝情報をコピーして,同じく細胞の中にあるリボソームという「工場」でタンパク質を合成させます.DNAが金庫に入った「タンパク質の設計図」としたら,mRNAは金庫から持ち出せる「設計図の写し」です.この「写し」を人間が書き直して,体外から導入することで,必要な抗体をリボソームに作ってもらう,というのがmRNAワクチンの考え方です.

2005年に,カリコーはワイスマンと共同でmRNAワクチンに関する研究成果を発表します.この発表はヒトの細胞にmRNAを導入する際に発生する体の防御システムをくぐり抜ける技術に関するもので,アメリカの生物学者デリック・ロッシが「ノーベル賞に匹敵する」と述べたものです.しかし,この発表が世間の注目を浴びることはありませんでした.

カリコーはワイスマンと共同で小さな企業を立ち上げ,2006年と2013年にmRNAワクチンに関する特許を取得しますが,大学がその特許を売り払ってしまいます.数週間後に米モデルナ社の投資会社がカリコーに「特許を売ってくれ」と持ちかけますが,彼女は「我々はもう特許を持っていません」と答えざるを得ませんでした.彼女はついに大学の研究室の場所代も賄えなくなり,2013年に大学を去ります.このとき彼女を招聘したのが,ドイツで創業5年目のベンチャー企業,バイオンテック社でした.

モデルナとバイオンテック

アメリカのバイオベンチャー企業「モデルナ」は,mRNAを使った創薬やワクチン開発に焦点を当てた企業です.立ち上げたのは,カリコーとワイスマンの技術にいち早く目をつけた生物学者ロッシで,2010年のことでした.モデルナは最終的にカリコーとワイスマンの技術のライセンス取得に成功します.当初はイギリスの製薬大手アストラゼネカと組んで,がんの治療薬などを目指しました.

大西洋を挟んでアメリカと反対側,ドイツのバイオベンチャー企業「バイオンテック」もまた,mRNAを使った治療を目指す企業です.トルコ系ドイツ人であるウール・シャヒンと妻のオズレム・テュレジ,オーストリア人のクリストフ・フーバーによって2008年に設立されました.mRNAワクチンの開発を目指し,2013年にカリコーを上級副社長として迎えます.当初はアメリカの製薬大手ファイザーと組んで,インフルエンザワクチンの開発を行っていました.

中国で新型コロナウイルスのパンデミックが報告された直後の2020年1月,モデルナとファイザー&バイオンテックはmRNAワクチンの開発を発表します.

両社は人類が体験したことのない速度で,人類史上初のmRNAワクチンを開発します.2020年12月2日,イギリス医薬品・医療製品規制庁はファイザー&バイオンテック製のワクチンに世界初となる緊急承認 (rapid temporary regulatory approval to address significant public health issues such as a pandemic) を与えます.同年12月11日,アメリカ食品医薬品局(FDA)はファイザー&バイオンテックのワクチンの緊急使用許可を与えます.その数週間後にモデルナ製ワクチンにも同様の許可を与えます.そして今週の8月23日に,FDAはファイザー&バイオンテックのワクチンを正式承認しました.

カリコーの執念が結実した日でもありました.

カリコーは,今年NHKによるインタビューに「物事が期待通りに進まない時でも周囲の声に振り回されず,自分ができることに集中してきた.私を『ヒーローだ』という人もいるが,本当のヒーローは私ではなく,医療従事者や清掃作業にあたる人たちなど感染のおそれがある最前線で働く人たちだ」と答えています.

おすすめ書籍

「ファイザーとアストラゼネカのワクチン,どこが違うの?」--.NHKをはじめとするテレビや朝日新聞などの全国紙,さらには米CNNやワシントンポスト,英BBC,ロイターなど海外のメディアにも紹介された「コロワくんの相談室」が待望の書籍化!新型コロナワクチンへの疑問や不安をスマホに入力すると,すぐに専門家による回答が返ってくるチャットボットの内容を,大幅にパワーアップして100問100答の本にしました.多くのイラストや図を用いているので,どこよりもわかりやすく,国内外の論文報告などの最新情報も反映しています.「新開発のワクチンの仕組みはどうなっているの?」「新型コロナワクチン接種後に副反応が起こったらどう対処すればいいの?」など,みんなの疑問,不安にしっかり答えます!
Amazon

アマゾンで「コロナワクチン」と検索するとめまいがする結果になりますが,本書はちゃんとした内容でした.新型コロナウイルス感染症とそのワクチン開発は現在も進行している事象です.本書は2021年4月30日に出版された比較的新しい本ですが,より新しい情報もご確認ください.厚労省のホームページやTwitterアカウントもご参考になさってください.

おすすめポッドキャスト

今週はポッドキャストのおすすめもお送りします.コロナワクチン開発の舞台裏をラジオドラマ風に描く放送です.スマートフォン,タブレット,PCなどで聞けますので,是非お試しください.カリコー・カタリンの「コピー室の出会い」も描かれています.

最終話ではアメリカで起こったワクチン破棄の事故も取り上げられています.2021年6月,日本ではワクチン約6,000回分の「大量廃棄」が問題になりましたが,その頃アメリカでは約6,000回分の大量廃棄があったんですね.何をするにしても,アメリカはスケールがでかいです.

おすすめTEDxパフォーマンス&トーク

今週の「おすすめトーク」は目先を変えて,なんと僕が演出家さんを演出するという不思議なステージになったTEDxKyotoの「ウォーリー木下」さんをご紹介します.彼はステージで

この世は舞台,ひとはみな役者 (All the world’s a stage. And all the men and women [are] merely players)

というメッセージを残されています.

ウォーリー木下さんは,今週「東京パラリンピック開会式」の演出家だったことが明かされました.

ところで,パラリンピック開会式の花火の映像を見て,打ち上げ業者を特定する猛者が現れました.花火と言えば本誌【第36号】でご紹介したところですから,僕も興味を持って映像を見てみましたが,驚くほど綺麗な色が出ていますね.本誌では「青が難しい」と書いたのですが,美しい青が出ていました.使われているカララントは公開されていないようなのですが,調べたところ花緑青(パリス・グリーン)に酸化剤として過塩素酸カリウムを混ぜたものが使われたようです.特に花緑青は猛毒なので,取り扱いには厳格な注意が必要なのですが,そこまでこだわった青色だったのですね.

というわけで,愉快なステージをお楽しみ下さい.

Q&A

匿名質問サイト「マシュマロ」および実名質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.

今週こんなマシュマロを頂きました.

運命を変えたいのです.何か糸口はないでしょうか?

むむむ,難しいご質問です.

僕の嫌いな作家,山岡荘八の「徳川家康」にこんなシーンがあります.

板倉勝重「運命と,宿命と,天命とは,どう違いまするので?」

徳川家康「おのれほどの年になっても,それが分からぬか」

勝重「はい.是非ともその差,お訓(おし)えおき下さりまするよう」

家康「よいか.ここに小さな茶碗一つをのせた丸盆(まるぼん)があると思え」

勝重「あの,小さな茶碗をのせました丸盆が」

家康「そうじゃ.その茶碗が人よ.よいか,するとこの茶碗は,盆のうちだけは,右へ行こうとし,左へ行こうとして縁(ふち)にさえぎられるところまでは自由に動けよう.この人間の自由に動けるところまでが運命じゃ.されば,運命とは,その人の意志を持って開くこともできれば築くこともできるものよ」

勝重「なるほど…さようでござりまするなあ」

家康「そしてこの盆の縁…つまりぶつかって動けなくなるところ,これ以上は行かせぬぞと,立ちふさがっている盆の縁…これが宿命と申すものだ(中略)しかしその宿命の上に,さらにもう一つ天命がある」

勝重「は…」

家康「天命とは,こうした盆,その上の茶碗,そしてさらにその盆の縁…そうしたものの一切を作り出している天地の命じゃ.人間は,人間の力をもってしてはどう変更(へんが)えもできない天命のあることを悟ったおりに,初めて自分を活(い)かし得る.わが天命は何であったか…天命はまたわが身に課された使命でもあるからの.これを悟らぬうちは,働いても働いても無駄になる.宿命の縁の中でのあがき以外の何ものでもない」

運命を変えるたったひとつの方法は「天命を知る」ことだと僕は思っています.天命を知るには何かひとつ,好きなことでいいので,限界までやってみることかなと思います.

こちらの匿名質問サイトで質問を受け付けています.質問をお待ちしております.

振り返らない動画

このニュースレターではこれまで「振り返り」動画を公開してきましたが,今週は「振り返らない」動画を撮らせて頂きました.

ニュースレターの振り返りポッドキャストはこちらです.

是非お楽しみください.

あとがき

今週はカリコー・カタリン博士の信念の戦いについてお話しました.彼女の戦いは,渡米前から始まっています.彼女はハンガリーのソノルク市という小さな町の出身で,1973年にハンガリーの国立大学に入学します.彼女はそのころからRNAの研究に取り組んでいました.

1949年に成立したハンガリー人民共和国は旧ソ連の衛星国で,1980年代になると経済的な疲弊が目立つようになります.大学卒業後にカリコーが勤めていたハンガリー科学アカデミー付属研究所も予算を大幅削減し,RNAの研究を打ち切ります.そして,1985年にカリコーは失業します.

同年,カリコーは娘のクマのぬいぐるみに全財産の900ポンドを詰め込んで,アメリカへ渡ります.外国通貨の持ち出しが規制されていたためです.

スーザン・フランシア (<a href="https://www.susanfrancia.com">SusanFrancia.com</a>)
スーザン・フランシア (SusanFrancia.com)

当時3歳だったカリコーの娘,スーザン・フランシアはボートの選手としてアメリカ代表になり,2008年の北京オリンピックで金メダルを受賞,そして2012年のロンドンオリンピックで2度めの金メダルを受賞しています.

イギリスの進化生物学者リチャード・ドーキンスは,カリコーとワイスマンはノーベル賞を受賞するだろうと予測しています.

世の中には本当に限界を突き破る人達がいるのですね…

今週も最後までお読みいただきありがとうございます.メールでお読み頂いた皆様は,よろしければボタンを押して行ってくださいませ.(ボタンは匿名化されています.集計したデータはこのニュースレターの内容改善以外には用いません.)

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では,また来週,お目にかかりましょう.

***

ニュースレター「STEAM NEWS by Ichi」

金谷一朗(いち)

TEDxSaikaiファウンダー・パイナップルコンピュータ代表・長崎大学情報データ科学部教授

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