2021年ノーベル物理学賞〜複雑さの中の秩序〈後編〉【第45号】
【140字まとめ】今週はノーベル賞気象学者真鍋淑郎先生の1967年論文を題材に,物理学者と計算機科学者がどのようにして「解けない」問題を解くかについてお話します.物理学者は「昨日の計算機」で「明日の問題」を解くのです.具体例としてモンテカルロ積分とロンバーグ積分のアイディアをご紹介します.
いちです,おはようございます.
このレターは「2021年ノーベル物理学賞〜複雑さの中の秩序〈前編〉」の続きです.前号では,2021年ノーベル物理学賞の歴史的な意義についてお話をさせて頂きました.今号では,受賞者のおひとり,真鍋淑郎の業績について掘っていきます.
ノーベル物理学賞の受賞理由でしばしば語られるのは,ある分野を「開拓」したことと,開拓後も常にその分野を「先導」していたことです.もちろん,アルベルト・アインシュタインの「光量子仮説」に対するノーベル物理学賞(1921年)のように「開拓」に対してだけ与えられる場合もありますが,基本は「開拓」と「先導」がセットで評価されます.
真鍋淑郎もまた,1967年の論文 “Thermal Equilibrium of the Atmosphere with a Given Distribution of Relative Humidity” (相対湿度が一定の場合の大気の熱平衡状態)で「数値解析」による気候の「未来予測」という分野を開拓し,その後もこの分野を常に先導してきました.
同論文はこちらから読めます.
真鍋の1967年の論文は,どのぐらい新しかったのでしょうか.
ほとんどの問題は「解けない」
気象の原因となる空気や水蒸気と言った物質がどのように振る舞うかはわかっています.分子1個1個は不規則に動きますので,例えばある酸素分子の1秒後の位置を答えなさいと言ったら答えられませんが,密閉された容器の中の空気をうんと加熱してやれば圧力がどうなるかと言った質問には正確に答えることが出来ます.
気象にとって重要なのは分子1個1個の振る舞いではなく,その集団としての振る舞いなので,これに関して我々は物理法則を十分理解しています.【第43号】でご紹介した「心理歴史学」はこの気体分子の物理学のアナロジーでした.
そう,物理法則はわかっているのです.
しかし,その法則から未来を予測することは極端に難しいのです.
これは天体の運行とは事情が違います.天体の運行について,我々は物理法則を知っています.それは「ケプラーの法則」と呼ばれる法則です.もし必要であれば「一般相対性理論」という,より精緻な法則を用いることも出来ますが,通常は両者の結論が一致します.ケプラーの法則によって,何月何日の何時何分に日食が起こるということを,我々は何百年も先まで知ることができるのです.
ところが気象となると,どうでしょう.
昭和の頃の天気予報を覚えていらっしゃいますでしょうか.当時の天気予報は「下駄と同精度」とまで言われていました.表が出たら「晴れ」裏が出たら「雨」というわけです.日本の「平均降水日数」は124日,つまり1年の1/3は雨が降る日なので,下駄つまりランダムな天気予報もそこそこ当たることになりました.
ところで,物理現象のほとんどは「微分方程式」という数式で書かれています.簡単に言うと,方程式の変数に「現在の状態」を代入すると,非常に短い時間,例えば0.001秒後の「未来の状態」が出てくる方程式です.
惑星の運行予報が正確に出来る理由は「現在の状態」が十分正確に調べられるから,そして,0.001秒後の未来を何度も何度も繰り返しても計算が狂わないからなんです.もちろん,未来予測を積み重ねるとだんだん計算誤差が溜まってしまうのですが,その影響を研究する「数値解析学」という学問が存在し,未来予測精度の向上に取り組んでいます.
天気予報が惑星の運行予報と比べて困難なのは「観測」が難しいこと,そして「未来予測を積み重ねること」が難しいことにあります.
気象観測の方は気象衛星や気象観測ブイの発達で昭和の頃よりは随分と良くなりました.とは言え,地球上の大気の気圧を例えば1メートルおきに調べていくことはまだ出来ませんし,温度,湿度,風向風速なんかも同じです.
未来予測の積み重ねが天体現象よりも難しいのも,考えなければならいプレイヤーの数を比べてみるとわかります.例えば地球の未来の位置は,太陽と地球と月の「3人」について考えておけば,少なくとも100年単位では狂いが生じません.しかし気象は,大気中のすべての分子の相互作用ですし,太陽から供給されるエネルギーもプレイヤーのひとりです.そのため未来予測は簡単にノイズにかき消されてしまいます.
この絶望的な問題に取り組んだのが真鍋淑郎でした.