【創刊3号】画家と冒険家と科学者の物語
いちです,おはようございます.
2021年の第1週目のウィークデイも今日で最後ですね.日付と時刻に関する標準規格 ISO 8601 では「最初の木曜日を含む(月曜始まりの)週が,その年の第1週である」と規定していますので,ISOに従えば今週が2021年の第1週となります.ただし米国では1月1日を含む日曜始まりの週を第1週と数えることにしているようです.もしお手元の手帳に週番号が入っていれば,どちらの形式か見てみてはいかがでしょうか.
さて,今週は3人の歴史上の人物を振り返りたいと思います.この3人は冒険を通して,人類への類まれなる貢献をしました.彼らは必ずしも幸福な最後を送りませんでしたが,その名前は後世まで語り継がれています.その3人とは,画家と,冒険家と,科学者です.

ポール・ゴーギャン
一人目はポール・ゴーギャンです.彼は株式仲介人(ブローカー)として,また半ば趣味であった絵画取引で経済的に成功していました.本業は当時のフランス人の平均年収の5倍,趣味の方も同額ほど稼いでいたと言うから大成功でしょう.しかし画家を本業にするようになってから生活が傾き始めます.ゴーギャンはルノワール,セザンヌ,マネらの才能をいち早く見抜くなど確かな審美眼を持っていましたが,彼自身の作品は同時代の人々からの評価が高かったとは言えず,売れなくとも絵を描き続けた彼は家族からも見放されました.そして最後は南太平洋のヒバ・オア島で命を落とします.病による痛みを止めるためのアヘンチンキの過剰摂取が原因とも言われています.
ゴーギャンは若い頃,水先人見習いとして,またフランス海軍の軍人として世界を航海したようです.結婚後もフランスの海外県であるマルティニーク島で絵を描いています.ただどういうわけか,どこかでまだ見ぬ南太平洋の島,フランスの植民地でもあったタヒチに強烈な想いを持ったようでした.
1891年にゴーギャンは念願のタヒチ上陸を叶えます.その2年後一旦フランスへ戻りますが画家として受け入れられたとは言えず,1895年に再びタヒチに帰ります.そしてゴーギャンは後に傑作として評価される「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を描きます.この絵は最愛の娘を亡くした失意のどん底で描かれており,作品の完成後ゴーギャンは自殺を試みています.一命を取り止め絵を再開した彼は,タヒチから1,500km離れた最後の島へと旅立ちました.

ポール・ゴーギャン「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は現在ボストン美術館に所蔵され,世界的な評価を受けています.イギリスの小説家サマセット・モームは「月と六ペンス」でゴーギャンをモデルにした小説を書きました.「月と六ペンス」は映画化もされています.
ゴーギャンはポスト印象派を代表するひとりとして,後のピカソやマティスらに多大な影響を与えました.彼がいなければ,美術の歴史は大きく違ったかもしれません.
なお西洋人としてタヒチ島を初めて訪れたのはイギリス人サミュエル・ウォリスで,マゼラン海峡を越える世界一周の途中でタヒチ島に立ち寄っています.1767年のことです.
フェルディナンド・マゼラン
二人目はフェルディナンド・マゼラン(フェルナンド・デ・マガリャネス)です.史上初の世界周航を達成した艦隊の隊長ですが,途中のセブ島で現地の小競り合いに首を突っ込み命を落としました.マゼランは何度か部下に見捨てられており,このときもまた大半の部下が先に逃げてしまったため戦死したものと考えられています.余計なことをしたマゼランが悪いのですが,その名声にふさわしい死に方であったとは言えません.
マゼラン艦隊が1520年に見つけた大西洋と太平洋をつなぐ海峡は,現在までマゼラン海峡(マガリャネス海峡)と呼ばれています.1914年にパナマ運河が開通するまでは,マゼラン海峡は大西洋と太平洋を行き来するための事実上唯一の通路でした.

Knutux「マゼランの航路」 CC BY-SA 3.0
僕はなぜマゼランがあと少しの南回りをしなかったのか,興味を持って伝記を読んでみたことがあります.地図の上では,マゼラン海峡は南アメリカ大陸のほとんど先端で,実際あと150海里ほど遠回りをすればより広いドレイク海峡を回れたはずなのです.ただし,これは後世の後知恵.当時は,南アメリカ大陸は無限に南へ続くと思われていたのでした.
南アメリカ大陸の向こう側にまた大洋があることは,パナマに上陸したスペイン人先駆者たちからの報告で知られていました.マゼランは,どこかに海峡があるはずだと南下しつつ探したのです.そしてついに見つけたのが,現在のマゼラン海峡でした.
さて,マゼランがなぜそれほどまでして地球を西に向かって一周したかったのかと思われるかもしれません.それには大きな理由があります.
ひとつめは,なんとしてでもスパイス諸島への道を見つけたかったこと.それも西廻りで.スパイス諸島とはインドネシアのモルッカ諸島のことで,種々のスパイスが採れることで有名な島です.特産品の中でもとりわけクローブとナツメグはインドの胡椒と並んで珍重されました.17世紀の高級料理に使われた調味料が塩,柑橘果汁,葡萄酒,酢,生姜,サフラン程度だったことを考えると,スパイスがどれほど重要だったかは想像できるでしょう.日本人だって,例えば麺つゆが地球の裏側でしか生産出来なくなったら,船団を繰り出して買い付けに行きますよね.
スペイン王の後援を受けたマゼランが西廻りを目指したのは,スペインのライバル国,そして皮肉なことにマゼランの生国であるポルトガルが東廻りの航路を抑えていたからです.マゼランよりも早くスペイン王の後援で西廻り航路を開拓したクリストーフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンブス)は1492年にアメリカ大陸に到達しています.また1513年に,スペインの冒険家バスコ・ヌーニェス・デ・バルボアがパナマを横断して太平洋を発見しています.そして,マゼランは海がどこかでこの大陸を超えて繋がっており,船で地球を一周できると信じました.スペイン王は自らの艦隊が西廻りでスパイス諸島に到達することを望みました.
マゼランが西を目指したいまひとつの目的は,1494年にローマ教皇のもと,スペインとポルトガルの間で結ばれた条約(トルデシリャス条約)にあります.この条約によると,新たに設けられた「教皇子午線」すなわち西経46度37分の東側がポルトガルの持ち物,西側がスペインの持ち物とされたのです.この子午線は大西洋のアゾレス諸島およびカーボベルデの西100リーグ(およそ500km)で,簡単に言うと既知の世界をすべてポルトガルのものにするための条約と言えます.そのため,スペインはポルトガル支配の及ばない西に富を求めました.なおこの教皇子午線は,後にブラジル(偶然にも教皇子午線の東側《訂正:初出時「西側」としていました》にある)を除く南北アメリカのスペインによる支配を正当化することになりました.
先に述べたとおり,マゼランは航海の途中で立ち寄ったセブ島で余計なことをして命を落とします.1521年4月27日のことです.同じ年の11月8日にマゼランを欠いた艦隊はスパイス諸島に到達します.スパイスを満載した艦隊はその後,惨憺たる苦悩を重ねつつもスペインに帰港しています.
マゼランの偉業は,地球が球体であることを実証し,地球の概ねの大きさを確定し,地球規模の地図を作り上げる基礎を作ったことです.
マゼラン艦隊が北極星の見えない南半球を航行中に目印とした銀河は,現在ではマゼラン雲と呼ばれています.マゼラン雲(大小あるうちの大きい方)は地球からおよそ16万3,000光年先にあります.
ガリレオ・ガリレイ
三人目はガリレオ・ガリレイです.彼は近代科学を作り上げた,人類の至宝と呼ぶべき科学者です.僕はガリレオを大変に敬愛しているので,このニュースレターでも今後何度か取り上げることになるでしょう.
1609年,ガリレオは「オランダで望遠鏡なるものが発明された」という噂を聞きつけ,自ら工夫してガリレオ式望遠鏡を発明,作成します.そしてこの望遠鏡を使って様々な天体を観測しました.彼が見たものは,月,水星,金星,火星,木星,土星,星団や星雲,そして太陽.
ガリレオによる木星の観測は,コペルニクスがひっそりと唱えていた地動説を決定的なものにしました.彼は,木星の周りに「木星の月」が回っていることを発見したのです.この四つの月は後に「ガリレオ衛星」と呼ばれることになりました.
ガリレオはまた最先端の発見を自ら平易に書いた「天文対話」という書物を1630年に発行しています.彼は,現在で言えばカール・セーガンのような科学コミュニケーター・科学ジャーナリストの先駆者でもあったのです.
天文対話は科学史において画期的な書物だったのですが,内容を巡ってガリレオはローマ教皇庁検邪聖省から有罪の判決を受けてしまいます.一説によると,天文対話の登場人物で天動説を信じるシンプリチオ(日本語に訳すと「バカボン」のような語感)のことをローマ教皇が「俺のことか!」と怒ったからと言われています.

ジョゼフ=ニコラ・ローベル=フルーリー「ローマの異端審問所で異端審問を受けるガリレオ」
天文対話は発禁になり(1822年に解除),ガリレオは禁固刑を言い渡されてしまいます.人類最高の科学者としては悲しすぎる晩年ですが,さらに禁固中に最愛の娘を亡くし,また太陽の観測がたたったのか失明もしてしまいます.それでも彼は死の直前まで研究を続け,振り子時計の発明も行っています.振り子時計はその後,オランダの物理学者クリスティアーン・ホイヘンス(ハイゲンス)によって制作されました.
ガリレオは1642年に亡くなりますが,葬儀は許されず,正式な葬儀は1737年まで待たねばなりませんでした.ローマ教皇が裁判の誤りを認めガリレオに謝罪したのは1992年で,ガリレオの死から350年が経っていました.
ガリレオはその功績から「近代科学の父」と呼ばれています.しかしこの呼び方は正確ではありません.ガリレオ以前の「科学」は科学と呼べるものではなく,言うなればポエムだったからです.だから僕はガリレオを単に「科学の父」と呼ぶべきだと思っています.また彼以前に科学は無かったことを考えると,同時に彼が世界初の科学ジャーナリストであったことも主張できるでしょう.
1995年,ガリレオの名を冠した惑星探査機が木星に到達しました.2005年,ガリレオの名を冠した衛星測位システム(欧州版GPS)が稼働を始め,現在28機のガリレオ人工衛星が地球を周回し,航海の目印になっています.2008年,ローマ教皇ベネディクト16世がガリレオを讃え地動説を認める説教を公開しました.
書籍紹介

Amazon.co.jp
アマゾンでは「驚愕の破滅人生!著名な大金持ちが大転落,貧しく寂しい末期を迎える.歴史に残らなかった12人の栄光と挫折に学ぶ,失敗学」と大げさに紹介されていますが,読んでみるとなるほど「栄光と挫折」の記録でした.
今週ご紹介したゴーギャンも本書第12章に登場します.「孤高の天才画家は,脱サラに失敗した証券マン〜無理解な妻と妥協できない夫」と題された章で,僕は涙なしには読めませんでした.
このニュースレターでゴーギャンに興味を持たれたら,ぜひお読みになってみて下さい.他にも破天荒な天才たちの人生が描かれています.僕などはまだまだ「狂い方」が足りないなあと反省しきりです.
おすすめTEDトーク
TED公式ページから引用します.2年前(2008年のこと)にロンドンでの高給職を辞め,海を手漕ぎボートで渡るようになったロズ・サベージ.大西洋の単独横断をすでに果たしており,女性としては史上初の太平洋の単独横断のため,今週その3区目を漕ぎ始めたところです…あれ,なんかゴーギャンとマゼランを合わせたようなストーリーですね.彼女は一体なんのために冒険を続けるのでしょうか.ぜひ彼女のトークを聞いてみて下さい.
なお彼女はこのトークのあと,太平洋無支援単独横断を完遂し,2011年に154日をかけてインド洋無支援単独横断に成功しています.
Q&A
匿名質問サイトマシュマロで質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今週のピックアップはこちらの質問にしました.
英語の本が読めません.でもそれが読みたいです.特に英語が苦手なわけではないし,話せないってほどでもないし,基本的な単語は知っているのに,なんとなく読めません.何かアドバイスはありますか?
これ,めっちゃわかります.ある程度の長さのあるストーリーって,途中から俄然面白くなるものの,冒頭はちょっと退屈するんですよね.そんなとき,母国語だとさらーっと流し読み出来ても,外国語だとちょっと引っかかったりしますよね.あと,僕は例えば Carrie という女性名が出てきたときに,彼女がキャリーなのかケイリーなのかカリなのか,すごく気になるんです.本質では無いのですけれどもね.
そこで,おすすめの読書法があります.KindleまたはKindleアプリで,翻訳版の無料サンプルを読むのです.最初の1章分,あるいはそれよりも短いかもしれませんが,導入として十分な量を母国語で読むことが出来るでしょう.その後,改めて最初から,あるいは続きから,英語版を読むのです.
これ,ストーリーが本当にすいすい頭に入っていきますよ.
あとがき
今週は歴史上の冒険家3人と,現代の冒険家1人をご紹介しました.美を求めてタヒチへ行ったゴーギャン,スパイスを求めて地球を一周したマゼラン艦隊,真理を求めて教会と対立したガリレオ,そして,地球を取り戻すために航海を続けるロズ・サベージ.
いきなり彼ら彼女らのような冒険が出来るわけではありませんが,我々も少しの冒険なら,きっと出来るはずです.
今年もまた,新しいことを始めてみませんか?
では,また来週!
ニュースレター「STEAM NEWS by Ichi」
発行者:金谷一朗(いち)
Photo by Mike Petrucci on Unsplash
「STEAM NEWS」をメールで読みませんか?
コンテンツを見逃さず、購読者限定記事も受け取れます。