ウクライナの数学者「ボロノイ」と琵琶湖の関係【第65号】
【140字まとめ】今週は「ウクライナてどんなところ?」というお話しから,ウクライナ出身の数学者「ボロノイ」の大発明「ボロノイ分割」とその応用までご紹介します.ボロノイ分割は琵琶湖の「救世主」になっているんですよ.最後に,僕たちがSTEMではなくSTEAMを学ぶ理由も書いてみました.
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いちです,おはようございます.
さて,今週は緊張の度合いが非常に高まっているウクライナを取り上げます.ウクライナは日本からはロシアを挟んで反対側になるため,影の薄い印象がありますが,人口で言えばイタリア,スペインに次ぐヨーロッパの中堅規模の国で,科学技術とりわけ航空宇宙技術はヨーロッパのトップ水準を維持する国です.またウクライナは帝政ロシア,ソビエト連邦時代から数多くの数学者を輩出しています.

ウクライナの恋のトンネル, DmytroChapman, CC BY-SA 4.0
ジョージ・ボロノイはそんな数学者のひとりで,彼の考え出した「ボロノイ図」という図形の作り方は,意外なことに日本の滋賀県の自治体の「救世主」になっています.なおジョージ・ボロノイは Георгій Вороний (Georgy Voronoy) の英語読みで,ウクライナ語だとヘオルギィ・ヴォロニィに聞こえますが,数学の世界で一般的な英語読みで行きたいと思います.
《目次》
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ウクライナってどんなところ?
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ジョージ・ボロノイの大発明「ボロノイ図」
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地球に線を引く人たち
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ウクライナで起こったこと・これから起こるかもしれないこと
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おすすめ書籍:旅行写真集ウクライナ
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おすすめTEDトーク:チェルノブイリに住む理由,それは故郷だから
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Q&A
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一伍一什のはなし

ウクライナってどんなところ?
僕のYouTubeライブ番組「世界遺産の旅」はいつも「どこにあるの?」「なにがあるの?」「ご当地グルメは?」という三つのトピックでお話をしています.この路線になぞらえて,まずはウクライナの場所からお話をしましょう.
ウクライナは東ヨーロッパにある国で,トルコと黒海を挟んで対岸に位置しています.首都キエフはムソルグスキー「展覧会の絵」でも有名ですね.この原稿も冨田勲の「展覧会の絵」を聴きながら書いています.キエフと言えば,アメリカの女優ミラ・ジョヴォヴィッチもキエフ出身です.
ウクライナの人口は4,370万人で,ヨーロッパでは8番目の人口規模です.国土はフランスの55万平方キロメートルより大きい60万平方キロメートルで,ヨーロッパでは3番目の面積になります.なお日本の面積は38万平方キロメートルです.いやあ,大きいですね.

聖ソフィア大聖堂, Rbrechko, CC BY-SA 4.0
ウクライナには文化遺産も多数残されています.そもそも「ロシア」の語源である「ルーシ」はキエフ周辺のことなので,ウクライナこそ「本家」という意識があるかもしれません.そんなルーシ時代の1037年に建てられた「聖ソフィア大聖堂」は大変美しい建物で,観光客にも開放されています.こちらは1990年に世界遺産に登録されています.
ボルシチはウクライナの代表的な伝統料理で,隣のロシアでも広く愛されています.なんと1960年代にはチューブ入り宇宙食として,ソビエト連邦の宇宙飛行士が携行しました.海外のどんな料理も「魔改造」してしまう日本人,いずれボルシチも魔改造して国民食にしてしまうかもしれません.
ジョージ・ボロノイの大発明「ボロノイ図」
ウクライナ出身の数学者に,ジョージ・ボロノイがいます.彼は1868年生まれで,1889年にサンクトペテルブルク大学へ入学しています.彼の先生は著名な数学者アンドレイ・マルコフでした.ボロノイは胃を患い,40歳で亡くなってしまうのですが,彼の数学的発見は大きな影響を現代にも残しています.
ボロノイの最大の業績は「ボロノイ図」または「ボロノイ分割」という図形の「作り方」です.
日本を代表する計算幾何学の研究者,杉原厚吉先生のご説明をお借りして,ボロノイ図をご紹介しましょう.
まず,平面上に点がばらばらに散らばっているところを想像して下さい.こんな図です.
それぞれの点について「他より自分に近い場所を囲い込んで領域分けしたもの」がボロノイ図です.結果はこんな図になります.
これが何の役に立つのでしょうか?
とても役に立つのです.例えば,岡部篤行・鈴木敦夫「最適配置の数理」(シリーズ「現代人の数理」)という教科書では,小金井市における郵便ポストの分布から,各ポストの「商圏」を割り出しています.自分の住所を調べると,最も近い郵便ポストが分かるわけですね.こんな地図になります.

もちろん郵便ポストは一例で,実際にはコンビニをこの地点に出店したらどのぐらいチャンスがあるのか,といった解析に使われます.ボロノイ図の分割線上の場所は,どちらの郵便ポスト(コンビニ)に行くにも同じぐらい遠いということになりますから,他の場所よりも設置(出店)ニーズはあるだろうということです.
またボロノイ図は自然現象の理解にも応用されています.例えばキリンの模様はボロノイ図だと言われています.

A Giraffe in the Mikumi National Park, Tanzania; Muhammad Mahdi Karim, GFDL 1.2
キリンの模様,かわいらしいですよね.そんなわけで,ボロノイ図を意匠に用いた例もあります.アマゾンで「ボロノイ」を検索すると,幾何学の本に混じって「ボロノイ図のパーカ」とか「ボロノイ図のキッチンマット」とかがヒットします.白状すると,どちらも欲しいです.
地球に線を引く人たち
最後に,ボロノイ図と大変に関係の深い仕事をご紹介します.それは地図や海図に「境界」を引いていく仕事です.そして,この境界線引きが,とある理由で滋賀県の自治体に大きな収益をもたらしました.
樺太(サハリン)にはかつて,日本で唯一となる地上の国境線(*)がありました.しかし,現在では樺太の南半分は帰属先未定(ロシアが実効支配中)のため,日本の国境は全て海上にあることになります.
(*長崎は1580年から1587年までイエズス会領だったので,樺太の他に地上の国境線があったかと言えば,小規模ながらあったことになります.)
海上の国境をどのように決めるかですが,昔は「海岸から大砲の届く距離」までを「領海」と決めていました.その後,領海の決め方は厳格化していき,現在は干潮時の海岸線から最大12海里(22.2キロメートル)と定められています.ただし海岸線が複雑な場合は一定のルールの下,定規を当てて海岸線を引き直すことが認められています.法的に決められた海岸線のことを領海基線と呼びます.
問題は対岸まで24海里ない海域や,海岸線が地続きな国同士の場合です.そんな場合,どのようにして海図に国境を引けば良いのでしょうか.
そこで考え出されたのが「等距離線 (equidistant boundary line) 主義」という主張です.等距離線主義とは,海上の国境上のどの点においても,その点から両国の領海基線上の最も近くにある点への距離が等しくあるべきだという主張です.等距離線主義が国際合意になったのは1958年ということですから,割と最近まで揉めていたのですね.
この等距離線主義を実際に海図や地図の上で計算するために,いくつかのアルゴリズムが知られていますが,数学的な基礎はボロノイ分割です.日本の領海は海上保安庁にあった領海確定調査室(1998年廃止)がごりごりと計算してくれていました.
目を日本国内に転じると,例えば東京湾内のとある埋立地について,隣接する区のどちらに帰属するのか争われたことがあります.このとき,東京都は「水面上は原則として等距離線主義を用いて分割する」という1995年の最高裁判決に基づいて分割案を示しています.最終的には両区が東京地裁で争うことになり,2019年に判決が確定しています.
一方,滋賀県の琵琶湖は,琵琶湖に面した自治体の話し合いによって境界が確定されました.2007年のことです.境界は等距離線主義によって決められました.
なぜ水面上の区割りが必要なのかと言えば,琵琶湖の面積を自治体の面積に加えることで,地方交付税が増額されるからなのです.とりわけ,2005年に市町村合併により誕生した高島市は琵琶湖の1/4を確保したことになり,市の面積は511平方キロメートルから693平方キロメートルへと36パーセントも増えました.そのお陰だったのか,2007年から2008年にかけて,高島市への地方交付税は8.4パーセント増額されています.各自治体の増額分の一部は共有の財源として琵琶湖の保全に用いられるそうです.
ウクライナ出身のボロノイの考え出したボロノイ分割が,日本や世界のあちこちで,区割りの解決の手段として使われているというお話しでした.
ウクライナで起こったこと・これから起こるかもしれないこと
ウクライナ国内のクリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市は2014年3月11日,ウクライナの承認を得ずに「クリミア共和国」として独立を宣言しました.同年3月16日に「クリミア共和国」はロシア連邦への併合を問う住民投票を実施し,開票の結果「9割の賛成投票があった」と発表しました.
翌日となる2014年3月17日に,ロシアのプーチン大統領は「クリミア共和国」の独立を承認し,3月18日にはロシア議会に「クリミア共和国」の併合を求める演説をしています.関連法案が3月20日にロシア議会下院,翌21日にロシア議会上院を通過し,ロシアは「クリミア共和国」を併合する条約を発効させました.それ以降,クリミア半島はロシアが実効支配しています.
本稿執筆時点で,ロシアはウクライナ国境付近に10万人規模の軍を展開させていると報道されています.もしロシアがウクライナに侵攻したとすると「5万人の市民が犠牲になり,数百万人の難民が発生するかもしれない」と米国政府は試算しています.
ロシアの真意はわかりませんが,もしロシアがウクライナに侵攻するならば,その前に大規模なプロパガンダが行われるでしょうし,西ヨーロッパ側も応酬するでしょう.我々がSTEM(科学・技術・工学・数学)だけでなくリベラルアーツ(教養)やファインアート(芸術)を含めた「STEAM」を学ぶのは,STEMが「どのように使われるべきなのか」「どのように使われてどのような結果を残してきたのか」を知るためでもあり,国によるプロパガンダを見抜くためのセンスを身につけるためでもあるのです.
かく言うこの記事もプロパガンダかもしれないなあと思いつつ,本記事を拡散していただけると,書き手としては嬉しいです.
おすすめ書籍
見るだけで旅行気分に!大量の旅行写真から厳選!旅行写真集シリーズ第5巻はウクライナ編です(旅行時期:2019年7月)●玉ねぎ屋根がシンボル!美しいロシア教会の数々●B級感がたまらない!?トイレ歴史博物館●間近で見る「チェルノブイリ原子力発電所」と廃墟となった周辺の街を訪れる●絶景!話題の「愛のトンネル」●もはや野外美術館!リヴィウにある世界一美しい墓地
旅行ガイドのように文章があるわけではなく,ただ写真が並ぶだけなのですが,たっぷりと楽しませてくれます.かの有名な「愛のトンネル」もしっかり入っています.圧巻はチェルノブイリの写真たちで,僕のような廃墟好きにも見応えのある写真集でした.
おすすめTEDトーク
チェルノブイリでは史上最悪の原子力事故が起き,原子力発電所周辺は過去27年間立ち入り禁止区域になっています.それでも,そこには200人ほどの住民が暮らしています.しかも住民のほとんどがおばあさんです.誇り高い彼女達は,移住命令を拒否してきました.故郷やコミュニティーとのつながりが,「放射線でさえかなわない力」になっているからです.
モリスが動画中で認めているとおり,故郷やコミュニティとのつながりが放射線による影響を打ち消す証拠はありません.しかし,彼女が最後に口にするとおり「意思 (personal agancy) と自己決定 (self-determination)」が生きる活力 (tonic) であることは,間違いないことでしょう.
驚きのトークを是非ご覧下さい.
Q&A
匿名質問サイト「マシュマロ」および質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今週はこちらのご質問から.
リラックスタイムには何を飲みますか?
りら〜っくすタイムは「ほうじ茶」です.宗教学者の山折哲雄先生がお若かった頃生死の境をさまよわれて,そのときスプーン一杯のほうじ茶が身にしみたというお話をされていました.そのお話を聞いてから,ほうじ茶をゆっくり飲む習慣を真似するようになりました.
このレターの最後に匿名質問サイトへのリンクを貼っています.質問をお待ちしております.

寒いですね…
結果,温度センサもプログラムも正常で,部屋が寒かったことがこれでもかと可視化されただけでした.
僕に必要なのは温度計ではなく暖房でした.

寒い日が続きますね
このニュースレター配信に先立って,音声版のほうを公開させて頂きました.ニュースレターにAppleポッドキャスト,Spotifyポッドキャスト,YouTubeリンクを埋め込んでみたかったためなのですが,お気づきでしたでしょうか?
音声版では前半にこのニュースレターの内容を,後半に僕の個人的な感想を話しています.前回,今回は少し暑苦しすぎたかもしれません.もう少しクールな発信を目指してみます.
この記事,それから音声版のためにウクライナの歴史や地理をずいぶんと勉強したんですよ.高校時代は歴史も地理も赤点すれすれだったのに,自分で勉強してみるとものすごく面白いですね.面白くないのは絶対に授業のせいでした.
そんなウクライナですが,東ヨーロッパではおそらく最も歴史の長い地域で,地理的には安定的な食料生産が可能な土地です.技術者や数学者も多数輩出しており,ソヴィエト連邦時代は工業の中心地でもありました.こう見ると貧しくなる要素は無さそうなのですが,ヨーロッパでは最も貧しい国のひとつになっています.
歴史や地理を学ぶと,STEM(科学・技術・工学・数学)だけで解決できない国の問題が見えてくるものですね.

静かな旧正月も終わりました
今週は入試と入試の合間で,いつもよりは落ち着いた一週間でした.入試と言えば,大学入試センターから大学入学共通テストの平均点が発表されました.「数学I・数学A」が100点満点中37.96点,「数学II・数学B」が100点満点中43.06点でした.2015年から2020年の6年間の平均点がそれぞれ51.88点,49.03点でしたから,受験生は頭を抱えていることと思います.
受験生の皆様は,全員の点数が一律低くなったものだと思って,どうか気落ちせずに二次試験に臨んで下さい.

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では,また来週,お目にかかりましょう.
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Cover photo by DmytroChapman, CC BY-SA 4.0
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