危険だと思うことがキケンな化学物質『DHMO』【第144号】

1️⃣科学的根拠を聞かされたときはそれが全部かどうかを確認しましょう
2️⃣科学者は科学的根拠がすべてだと思わないようにしましょう
3️⃣科学的には「肉より魚の方が安全」という主張だってできます
金谷一朗(いち) 2023.09.01
誰でも

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いちです,おはようございます.

皆さんは「ジ・ヒドロゲン・モノ・オキシド(DHMO)」という化学物質のことを聞いたことがあるでしょうか?

財団法人食品分析開発センターによると,DHMOは以下の性質を持っています.

  • DHMOはヒドロキシ酸の一種であり,無色,無味,無臭である.

  • DHMOは比較的古くから工業に使用されてきたが,産業の巨大化や軍事技術の発展に歩調をあわせて使用量が飛躍的に増加した.

  • DHMOは,ナトリウム,カリウム,カルシウムなどの金属を侵し,水素ガスを発生させる.

  • DHMOは毎年無数の人を死に至らしめ,その多くはこの物質を液体のまま吸引したことによる呼吸不全が死因である.

  • 固体となったDHMOに接触すると,身体組織に激しい損傷を引き起こすことが実験的に確かめられている.

  • DHMOは,不妊男性の精液,死亡した胎児の羊水,がん細胞から多量に検出される.

  • DHMOは犯罪者の血液や尿に多量に含まれ,暴力的犯罪のほぼ100パーセントがこの物質を摂取した後24時間以内に起こっている.

以上の性質にもかかわらず,DHMOは食品に無制限に添加することが認められています.

いいんでしょうか?

読者の皆様の中には,すでにオチをご存じの方もいらっしゃるかもしれません.ジ・ヒドロゲン・モノ・オキシド(DHMO)とは「一酸化二水素(H₂O)」つまり「水」のことです.

Photo by&nbsp;<a href="https://unsplash.com/@dsinoca?utm_source=unsplash&amp;utm_medium=referral&amp;utm_content=creditCopyText">Daniel Sinoca</a>&nbsp;on&nbsp;<a href="https://unsplash.com/photos/AANCLsb0sU0?utm_source=unsplash&amp;utm_medium=referral&amp;utm_content=creditCopyText">Unsplash</a>

Photo by Daniel Sinoca on Unsplash

上記の性質は科学的にはまったく妥当な主張です.それでも,この主張だけ読むと「なんて危険な物質なんだろう」と思いませんか? 実際,米国カリフォルニア州オレンジ郡のアリソ・ビエホ市ではDHMO規制の条例が採択寸前までいきました

僕は弱小,いや底辺ではあるものの科学者であり,社会活動家(Social Activist)であろうと心がけていますから,社会に対して「扇情的な情報に気をつけてください,科学的根拠に目を向けてください」と伝える立場にあります.しかし,こちらでご紹介したDHMOに関する話題は科学的にまったく妥当な主張だけを並べたものです.つまり,都合良く選ばれた科学的根拠に目を向けるだけでは不十分なのです.科学的根拠も使いようによってはプロパガンダにもなり得ることも,意識しなければならないのです.

今週はそんなお話をお届けいたします.

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《目次》

  • DHMOジョークが教えてくれること

  • ココナッツによる死

  • ALPS処理水と科学的根拠

  • 今週の書籍

  • 今週のTEDトーク

  • Q&A

  • 一伍一什のはなし

DHMOジョークが教えてくれること

「ジ・ヒドロゲン・モノ・オキシド(DHMO)」つまりは「水」がいかに危険な物質であるかというジョークの初出は,1983年のエイプリルフールだっただそうです.僕はこのジョークが生化学者でもあった作家アイザック・アシモフによるものと誤解していましたが,クレイグ・ジャクソン(Craig Jackson)によるものでした.思い込みはいけませんな.

繰り返しますが,DHMOあるいは一酸化二水素はただの「水」です.水も飲みすぎれば中毒になりますし,溺死の原因だって水ですが,だからといって水が我々の生命を脅かす物質とは言えません.それどころか,我々は水無しでは生きていけません.そして,DHMOつまり水に関する主張は科学的にまったく正しいのです.

つまり「科学的に正しい主張」を読むときには「何が書かれていないのか」「科学的に正しい主張は他にもないのか」と言ったことに目を向ける必要があるのです.

ココナッツによる死

科学的主張が人々をミスリードする例をもうひとつご紹介しましょう.こちらは「ココナッツによる死(Death by coconut)」と呼ばれている事象です.

Photo by&nbsp;<a href="https://unsplash.com/@corinnekutz?utm_source=unsplash&amp;utm_medium=referral&amp;utm_content=creditCopyText">Corinne Kutz</a>&nbsp;on&nbsp;<a href="https://unsplash.com/photos/468TVCIbvkU?utm_source=unsplash&amp;utm_medium=referral&amp;utm_content=creditCopyText">Unsplash</a>

Photo by Corinne Kutz on Unsplash

1984年,パプアニューギニア・ミルン湾州立病院(当時)のピーター・バルス(Peter Barss)博士は論文「落下するココナッツによる負傷について」で「当院の過去4年に渡る集計では,怪我で入院する患者の2.5パーセントはココナッツ落下による負傷であり,うち少なくとも2人が死亡している」と述べています.

ココナッツの実は固く,大きなものは4キログラムに達します.またココナッツをつけるココヤシは大きいものでは高さ30メートルに達します.直径30センチメートルのココナッツの空気抵抗係数(Cd値)を0.4と見積もり,4キログラムのココナッツが30メートルを自由落下すると終端速度は時速36キロメートルになります.直撃したらたまりませんな.

ミルン湾州の人口がおよそ30万人,4年で2人がココナッツで亡くなっていることから,平均すると毎年60万人に1人がココナッツで亡くなっている計算になります.

ここまでの主張は科学的なものです.

しかし,2002年に至って,この数値は誤って引用され,全世界で毎年150人がココナッツによって死んでいると,環境活動化ジョージ・バーゲス(George Burgess)によって主張されました.また,この主張に基づいて,オーストラリア・クイーンズランド州の観光地ではココヤシの伐採も計画されました

もちろんこれは過剰反応で,統計の誤用にあたります.ココヤシは南国の植物で,世界中に分布するわけではありませんから,パプアニューギニアの死亡率を世界に当てはめるわけにはいきません.

DHMOの例と同じく「何が語られていないか」について,僕たちはいつも気にしないといけないという例になっているわけですね.

なおバルスは2001年に「イグノーベル医学賞」を受賞しています.ちょっと羨ましいです.

ALPS処理水と科学的根拠

今年(2023年)8月24日から,福島第一原発ALPS処理水の海洋放出が始まりました.

当事者の東電のほか,各省庁からALPS処理水放出の安全性の根拠が示されています.(東電首相官邸経産省外務省環境省復興庁消費者庁.)

ALPS処理水放出に関しては「科学的に安全」という主張に対して,「科学的根拠だけでいいのか」(毎日新聞)「科学を隠れ蓑にするな」(日経新聞)という記事も見られます.もっともこれらの記事も中身は科学コミュニケーションの重要性を説いたもので,若干「釣り」タイトルな気もしますが,科学を語る者への信頼という大きなテーマを突きつけているようにも見えます.

僕たちが気をつけないといけないことは,まず科学的根拠がすべてテーブルの上に載せられているかどうかということでしょう.ALPS処理水に関しては国際原子力機関IAEAによるレビューまでされていますから「意図的に隠された」あるいは「誰もが気づいていない」科学的根拠が今後出てるくことはまずないでしょう.

ただし,人間は科学的根拠のみで物事を決断するわけではありません.心理的安全性(怖くない),経済的安全性(損しない),そして宗教的安全性(穢れない)を求めることも,立派な個人的感情です.

ALPS処理水は,福島第一原発の融け出したコアに直接触れた水から,トリチウム(三重水素)を除く放射性核種を取り除いて浄化したものです.そのため,どれだけ浄化しても「一度ケガレに触れてしまったもの」という印象を与えがちです.僕が住んでいた大阪府では,滋賀県と京都府の下水を浄化して上水にしていたので,ありゃあケガレた水だったんでしょうかね……と思いつつも,同情できなくはないです.

X(旧Twitter)での不毛な喧嘩を見ていると「薄めれば安全」という主張はもとより「薄めても嫌」という主張も,科学的な根拠を持ち出そうとしているところが不思議でした.今の時代「ケガレが怖い」は理由として主張しづらいのかもしれません.しかし,そのために科学を主張にあわせて利用しようとする態度はよろしくありません.

科学的根拠のみに基づいて考えるならば,たとえば「肉ではなく魚を食べよう」姜健旭ソウル大学病院教授)となります.いまや海よりも大気のほうが汚染されているはずだという主張です.もともと海上よりも地上のほうが自然放射線レベルが高いのですが,具体的な数値でも見てみましょう.

日本の場合,大気中および大地からの放射線の等価線量はおよそ1.1ミリシーベルト毎年です.(日本人は他に食物から0.99ミリシーベルト毎年の影響を受けています.)一方,ALPS処理水を1年で放出したとすると71から810ナノシーベルト毎年(0.000071~0.00081ミリシーベルト毎年)の影響があると考えられています.元々の海水は200から900マイクロシーベルト毎年(0.2〜0.9ミリシーベルト毎年)を持っていますが,両者を足し合わせても,魚よりも肉のほうがより多くの放射線にさらされているということになります.

実際,水産庁による海産物のデータと,農水省による畜産物のデータを比較しても,畜産物のほうがより多く放射線を放出しています.

ALPS処理水放出は科学的にはおそらく問題はないのでしょうが,それでも科学コミュニケーション的にはまだ改善の余地があるのかもしれません.流石に公金の投入は難しいでしょうが,海を鎮める「お祓い」や人心を鎮める仏教行事は,海洋放出に先立ってすべきだったかもしれません.

僕たち,STEAM NEWS乗組員そして読者の皆様が科学や技術だけでなくアートを重視するのは,科学もまたひとの営みだと知っているからだと思うのです.

このメッセージは,科学者にこそ届いてほしいと,底辺科学者として願っています.

今週の書籍

いま全国的に放射能への関心はこれまでになく高まっている。本書では、わかりにく放射能・放射性物質・放射線の違いを明確にし、放射性物質がどんな反応で生まれてくるのか、そして人体にどういう影響をおよぼすのかを、わかりやすく解説していく。
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福島第一原発事故直後の2011年5月に出版された本ですが,冷静に科学的知見を述べた内容です.

今週のTEDトーク

TED

TED

原子力発電: エネルギー危機は環境保護主義者でさえ再認識し始めている.このTED史上初の討論会では,スチュワート・ブランドとマーク・Z・ヤコブソンが原子力の是非をめぐり攻防を繰り広げる.この討論があなたを揺るがし,そして考えを変えさせるかもしれない.
TED

⚠️この討論は2010年2月(福島第一原発事故の1年前)に行われました.

原子力発電は一度事故を起こすと取り返しの付かない放射能汚染を引き起こすという側面があり,その一方で発電時に二酸化炭素(CO₂)を排出しないという側面もあります.

ことエネルギー問題に関しては戦争の原因にもなり得るため,我々人類は耳から血が出るぐらい脳みそを絞らないといけません.そのために,たとえ科学的根拠を超える根拠が必要だとしても,科学的根拠を無視することはできません.

そんな議論のきっかけにこのTEDトークはいかがでしょうか.

Q&A

匿名質問サイト「マシュマロ」および質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.

今週はこちらの質問から.

失恋はしておいた方がいいと思いますか?今とっても苦しいです.

運命の人は3人以上います.

これは僕の言葉ではなくて,僕の先輩から教わった言葉です.

以前京都の美大で教えていたときに「この人いないと死んじゃうって思っても,絶対死んだらあかんで.運命の人は3人以上おるんやで」と学生に伝えていました.

運命の人はひとりかもしれないですが,僕たちは「誰が」運命の人かって事前に知ることはできないですもんね.

いま失恋中のあなた.運命の人とは,また出会えますよ.

このレターの最後に匿名質問サイトへのリンクを貼っています.質問をお待ちしております.

一伍一什のはなし

今週は「伝書鳩」に関する話題がふたつあります.

ひとつは「『インターネット』と『伝書鳩』どっちが速い?」というニュース.STEAM NEWS「伝書鳩が伝えるメッセージ【第142号】」でお伝えした内容を地で行くニュースで,僕も腰を抜かしました.くすっと笑えるニュースなので,お時間ありましたらリンク先に飛んでみてくださいね.

もうひとつは,なんとSTEAM NEWS読者さんから「僕も伝書鳩を拾ったことがありますよ」と言われたこと.彼はリアルに迷子の伝書鳩を拾ったことがあったそうで,指示に従ってクロネコさんに伝書鳩を託したそうです.本末転倒感がおもしろいです.

さて,先週今週は遅めの夏休みを頂戴していました.長崎の路面電車でビールを飲んだり,週末は数年ぶりに沖縄へ出かけたりしました.楽しかったのですが,時間間隔が(さらに)狂ってしまいまして,来週からのタイ出張がすっかり頭から抜けてしまいました.

なんかいろいろ間に合っていないのですが……まあ,いつものことかもしれません.

🍓

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では,また来週,お目にかかりましょう.

【謝辞】本ニュースレターは「STEAMボート」乗組員(STEAM NEWSサポートメンバー様)のご支援でお届けしております.乗組員の皆様に感謝申し上げます.

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