数学を永遠に変えたフランスの美少年【第41号】
【140字まとめ】今週は「数学を永遠に変えたフランスの美少年」エヴァリスト・ガロアについてお話します.フランス革命真っ只中の1811年,パリ郊外にガロアは生まれました.時代のずっと先を行っていたガロアの理論は当時受け入れられず,ガロアも革命と恋に翻弄され,20歳で命を落としてしまいます.
いちです,おはようございます.
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先週末のことなのですが,眼鏡橋の下を流れる川に落ちたんですよ.冷たいし,痛いし,目の前でiPhoneは沈んでいくし…しかし今思えば,死ななかっただけ幸運でした.僕がよく落ちる海と違って,川の場合は腰まで浸かってしまうと大変危険です.川底は流れが速く,滑りやすいため,立ち上がれないことが多いのです.また漂流物によって骨折する危険性もあります.僕も経験があるのですが,片足を骨折するとまず立ち上がれません.
それに,川は地上から見えているよりも深いんですよね.これは身を持って確認しました.
結局,映画「マトリックス」の主人公「ネオ」のような姿勢で耐えて水没を免れたのですが,あの映画のように長い長い一瞬でした.特にiPhoneが沈んでいく様子ときたら,まるで川の水が蜂蜜になったかのようでした.
僕自身はSTEAMボートの「船長」のつもりでいましたが,今後は水深調査員を名乗ります.(乗組員のお一人から命名されました.)

美少年ガロア
1811年,エヴァリスト・ガロア (Évariste Galois) はパリ郊外に生まれました.時代はナポレオン1世によるフランス第一帝政です.チャイコフスキーの序曲「1812年」に描かれた「ロシア戦役」の1年前なので,ナポレオンの絶頂期でしょう.
ロシア戦役は60万人の兵士を連れてロシアに攻め込んだナポレオンが,わずか5,000人の兵士とともに敗走するという,ナポレオン側から見たら大失態に終わります.1814年,ナポレオンは追放され,フランスは王政に戻ります.

ガロアの父親は公立学校校長で,詩人で,その後町長になります.ガロアの母親はパリ大学法学部教授の娘で,ギリシア語とラテン語に堪能でした.つまりは,絵に描いたような文学少年としての教育を受けたわけですね.
ガロアはパリの名門高校,リセ・ルイ・ル・グランに12歳のときに入学します.ここでどういうわけかギリシア語やラテン語に突然興味を失い,数学に目覚めるのです.ルイ・ル・グランの後輩には数学者シャルル・エルミートや理論物理学者アンリ・ポアンカレがいますから,数学へと導く何かがあったのかもしれません.ガロアはルジャンドルの「幾何学の基礎」を2日で,ラグランジュの「数値方程式の解法」を8日で読んだと言われています.どちらも1年以上かけて読むような本です.そして,ガロアは16歳のときに理工系のフランス最難関,エコール・ポリテクニークを受験するのですが落第してしまいます.
しかし悪いことだけではありませんでした.ガロアは飛び級で数学特別級に進学し,数学教師リシャールに出会います.リシャールの影響で,ガロアは17歳にして人生最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」を書いています.これが1829年4月1日のことでした.その1か月後には新たな論文を書いて,数学者オーギュスタン・ルイ・コーシーに頼んでフランス学士院に提出するよう求めています.
人生が好転しかかったに見えたのですが,同じ年の7月,ガロアの父親が自殺してしまいます.自由主義の考え方を持った人物で,人望も厚く,革命の中で町長を勤めていたのですが,王政復古による揺り戻しを強く受けてしまいました.その直後,ガロアは2度めのエコール・ポリテクニーク受験をし,落第しています.伝説によれば,試験官がつまらない質問を繰り返したため,ガロアが黒板消しを投げつけたためだそうです.エコール・ポリテクニークは生涯2回しか受験できない決まりのため,ガロアの望みは絶たれました.
結局,リシャールの手助けによってガロアはエコール・プレパラトア(準備学校,後のエコール・ノルマル・シュペリウールすなわち高等師範学校)に入学することが出来ました.それだけでも大したものですが,本人は不満だったかもしれません.
論文を無くされる
1830年は,ガロアが高等師範学校で再出発を始める年でした.
1829年に書いてコーシーに預けた論文がどうなったかと言うと,なんとコーシーが「無くしてしまった」ようなのです.実際に何があったのかはわかりませんが,結局コーシーはガロアの論文を提出しませんでした.
そこでガロアは1830年に再び論文をフランス学士院に提出します.提出先は,学士院の審査員を勤めていた数学者ジョゼフ・フーリエでした.当時のフーリエと言えば,フランスの学術界に君臨する大御所中の大御所でしたので,フーリエが認めれば間違いなくガロアの名声は響き渡ったはずです.しかし,ここにも不幸がやってきます.なんとフーリエが論文を預かったまま急死してしまうのです.1830年5月16日のことです.
美少年ガロア,どこまで不運なのでしょう.
そしてフランスは1830年7月27日を迎えます.「フランス七月革命」「栄光の三日間」とも呼ばれる市民革命で,王政復古で蘇ったブルボン王朝は再び打倒されます.

度重なる不運がそうさせたのか,七月革命に惹かれたのか,ガロアは流行思想でもあった「共和主義」に傾倒していきます.ガロアが傾倒したのは「共和主義」であって「共産主義」ではありません.今では「政治参加への自由を求める」共和主義はもはや保守系の範疇ですが,この時代では革新的な考え方でした.
ガロアの生きた時代にはまだマルクス主義は生まれていませんが,当時の共和主義は19世紀のマルクス主義ぐらいの熱量があったのでしょう.秘密結社に加わり,政治活動に熱中するようになったガロアは校長を侮辱したことで ,1831年1月4日付で放校されます.ただし,ガロア自身はそれよりも前に自分から退学しました.この頃,ガロアの仲間19人が国家転覆を謀ったかどで逮捕されています.
政治活動と数学は別だったのでしょう,1831年1月17日に,ガロアは学士院へ3度目となる論文提出を行っています.ガロアが2度も論文を無くされたことを知った数学者シメオン・ドニ・ポアソンが,ガロアに再々提出をすすめたのです.論文のタイトルは「方程式の冪根による可解条件についての考察」でした.
同じ1831年の4月,ガロアの仲間が釈放され,5月9日にガロアたちが釈放パーティを開いています.このパーティには小説家アレクサンドル・デュマもいました.このパーティではしゃぎすぎたガロアは,翌日政府によって逮捕されてしまいます.6月15日の裁判で無罪を勝ち取りますが,7月14日に再び逮捕され,10月23日には禁固6か月の有罪判決を下されます.
1831年6月15日の裁判と7月14日の再逮捕までの間に,ポアソンはガロアへ手紙を書いていました.しかし,ポアソンの手紙がガロアへ届いたのは,彼が獄中にいた10月のことでした.ポアソンの手紙には「きみの論文の意味がよくわからない.もっとわかりやすく書いてほしい.書き直したらまた送ってくれ」と書かれていました.
失恋と決闘
パリでコレラが流行したことから,ガロアは1か月刑期を残した1832年3月16日に近くの療養所へ仮出所します.そして,療養所の医師の娘,ステファニー・フェリス・ポトラン・デュ・モテルに恋をしました.
しかし,ガロアは5月14日付の礼儀正しい手紙で振られてしまいます.ステファニー・フェリスには婚約者がいたのです.
しかも,ステファニー・フェリスの婚約者がガロアへ決闘を申し込みました.決闘は1832年5月30日と決められました.
ガロアは決闘の前日に3通の手紙を書いています.一通目は「すべての共和主義者」へ宛てたもの.自らの死を予見し「くだらない死」を嘆くものでした.二通目は共和主義者の友人へのもので,決闘相手もまた共和主義者だったことを推測できる内容でした.両方の手紙には「つまらない色女に引っかかった」と後悔の念を書いています.第三者から見れば「つまらない色女」は無いだろう…と思ってしまいますが,実際に何があったのかは永遠にわかりません.ステファニー・フェリスが婚約者の愚痴をガロアに話し,それを聞いてガロアが決闘を決意したという説もあります.また,この「婚約者」が偽物だったという説もあります.それに,ガロアもまだ20歳ですしね.
ガロア最後の手紙の3通目は,ガロアの親友,オーギュスト・シュヴァリエに宛てられた8ページの手紙でした.ポアソンから返された論文の修正や新しい発想を書き,ドイツの数学者カール・フリードリヒ・ガウスやカール・グスタフ・ヤコブ・ヤコビに意見を求めてほしいと書いていました.手紙には「ぼくにはもう時間がない」とも書かれていました.手紙の内容について,20世紀に活躍したドイツの数学者ヘルマン・ワイルは「内容の新しさと深さを考えると,人類史において最も重要な書付だろう」と述べています.
フランスでは14世紀に制度としての決闘は廃止されましたが「名誉のための決闘」は長く続きました.フランスで最後に決闘が行われたのは1967年のことです.ガロアの決闘の4年後には「決闘章典」という決闘ルール集が発行されていますが,ガロアの時代にはすでにルールがかなり整備されていたことでしょう.
ガロアの決闘相手はペシュ・デルバンビル (Pescheux d'Herbinville) と言われています.もしそうなら,1831年のはじめに逮捕された19人のひとりで,ガロアがその釈放を祝った共和主義者です.ガロアの決闘相手は,ガロアと一緒に収監されていたエルネスト・デュシャートレ (Ernest Duchatelet) とする説もあります.
5月30日の早朝,パリ近郊ジャンティーユ地区グラシエールの沼の付近で決闘が行われました.決闘章典には銃を交互に撃つなどのいくつかのルールが記載されていますが,ガロアたちがどのような流儀で決闘をしたかは残されていません.ともかくガロアは腸を銃で撃ち抜かれ,相手にはもちろんのこと,自身のセコンド(介添人)にも放置されてしまいました.午前9時ごろ,近くを通った農家がガロアを病院に運び込みます.
翌日,ガロアは駆けつけた弟アルフレッドに
泣かないでくれ.二十歳で死ぬのには,ありったけの勇気が要るのだから!
との言葉を残し,わずか20年の生涯を閉じました.
ガロアが亡くなった翌日の1832年6月1日には,王政に反対し続けた将軍ジャン・マクシミリアン・ラマルクが亡くなり,これを機に共和主義者達によって「六月暴動」がパリに引き起こされました.この経緯は,共和主義者でもあった作家ヴィクトル・ユーゴーによって「レ・ミゼラブル」に書かれています.
結局,ガロアの決闘が何のためだったのか,永遠の謎になりそうです.なお,ステファニー・フェリスは1840年に別の人(言語学者のオスカー・テオフィル・バリュー)と結婚しています.
ガロアが計算機科学に残したもの
最後に,ガロアが計算機科学(情報科学・情報工学)に残した業績に触れておきます.いえ「残した」なんて書き方では全く足りないのです.ガロアの貢献がなければ,計算機科学は成り立たないのです.
それは「ガロア体(たい)」または「ガロア・フィールド(Galois field)」と呼ばれる考え方です.ガロア体をとっても簡単に言うと「0」と「1」しかない代数のことです.こんな感じになります.
足し算
-
0⊕0=0
-
0⊕1=1
-
1⊕0=1
-
1⊕1=0
掛け算
-
0×0=0
-
0×1=0
-
1×0=0
-
1×1=1
足し算が我々の馴染んだものと少し違うのですが,これはこれで足し算なのです.記号がいつもの十字ではなく島津家の家紋になっているのもわざとです.(厳密に言うと有限個の「数」しかない代数はすべてガロア体と呼びます.)
我々が普段計算に使っている「数」には終りがありません.上限もなければ,下限も無いのです.しかし,ガロアが導入したガロア体では,要素が有限個しかありません.ところが,無限の「数」と同じように(少し違うけれど)足し算と,掛け算が行えるのです.さらには,引き算と割り算も行えるのです.
ガロアは「0」と「1」だけの代数が存在することを示しました.これはコンピュータが扱う「2進数」とは別ものなのですが,2進数による計算を支えている「論理代数」の基礎となるものです.
以前,質問サイトQuoraでこんな質問を頂きました.
6歳児の息子に「あいうえお」は終わりがあるのに,数字に終わりがないのはどうして?と聞かれました.子どもにも分かりやすい説明はありますか?
僕は人間が無限の数を「想像」できること,そして,その想像を「数える」ことが出来ることが,数字に終わりがない理由だと回答しました.この考え方は1885年,ドイツの数学者ゲオルク・カントールによって初めて示されたものです.カントールは「数」の本質を見抜いた偉大な数学者です.
しかし,ガロアはカントールの50年以上も前に,より深く「数」の本質を掴んでいたことになります.コーシーやポアソンと名だたる数学者たちが,ガロアのアイディアを理解できなかったのも仕方ないのかもしれません.
1870年,フランスの数学者カミーユ・ジョルダンによって,ガロアの考えたことをまとめた大著が出版されました.その序文で,ジョルダンは「本書はガロアの諸論文の注釈に過ぎない」と述べました.
おすすめ書籍
天才という呼称すら陳腐なものとする人物が歴史上には存在する.十九世紀,十代にして数学の歴史を書き替えたガロアは,まぎれもなくその一人だ.享年二十.現代数学への道を切り拓く新たな構想を抱えたまま,決闘による謎の死で生涯を閉じる.不滅の業績,過激な政治活動,不遇への焦りと苛立ち,実らなかった恋—革命後の騒乱続くパリを駆け抜けた,年若き数学者が見ていた世界とは.幻の著作の序文を全文掲載.
どういうわけなのか,いつもニュースレターを書き上げた後に,ど真ん中,どストライクな書籍に僕は出会います.本書もまた,このニュースレターをだいたい書き終えたあとで出会いました.なぜ書き始めのときに出会わなかったのか,不思議でなりません.
本書には,ガロアが獄中で書き上げた「序文」と言われる数学論文の翻訳も掲載されています.フランス革命と並行するガロアの数学への情熱も描かれています.
白状するとまだ最後まで読んでいないのですが,あまりにもテーマがぴったりなので「おすすめ書籍」に掲載させて頂きました.
おすすめTEDxトーク
「数学の演奏会」をご存知ですか?数学のステージで拍手に包まれる演奏家,それが森田真生さんです.2010年,東京大学理学部数学科在学中に,福岡県糸島市に数学道場「懐庵」を立ち上げたのが,独立研究者としての第一歩.以来「思考を超えた制約の中に思考を投げ出す」ことをテーマに,さまざまな実験的ワークショップを開催しながら,大学制度の外側で独自の研究活動を展開してきました.主な関心は「圏論」「計算論」.現在は京都に拠点を構え,自然と「ともに-考える(com-putare)」という,言葉本来の意味での計算(computation)ということを理論的,実践的に追求しています.同時に,数学の世界の数々「名作」を「演奏する」ことをコンセプトに「数学の演奏会」を全国各地で開催しています.
TEDxKyoto 2012 からトークをご紹介させていただきますね.「数学と情緒」という,少し変わった話題を提供してくれています.お楽しみください.
Q&A
匿名質問サイト「マシュマロ」および実名質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今週のご質問はこちらから.
ソロキャンプを始めてみたいのですが,キャンプ動画を見てると,皆火を起こして凝った料理とかしててスゴイなぁ…と思いますが,手始めにただ買ってきた弁当とか食べるのではダメでしょうか?
僕の個人的おすすめは「おむすび」と「魚肉ソーセージ」です.どちらもゴミがコンパクトになるため,持ち帰りが楽なんですよね.
ちなみに,仕事で発掘現場に行くときもだいたい「おむすび」「魚肉ソーセージ」です.
このレターの最後に匿名質問サイトへのリンクを貼っています.質問お待ちしております.

今週,長崎に出されていた県独自の緊急事態宣言が解除されました.一方,佐世保市は緊急事態宣言が維持されており,先日は佐世保郵便局が業務を停止したというニュースも流れてきました.コロナ第5波が何故か収まりつつあるとはいえ,まだ油断はできませんね.
というわけで,今週は久しぶりにYouTubeの録画をしてみました.
そろそろ受験シーズンも始まりますし,コロナがこのまま終息してほしいところなのですが,第5波がなぜ落ち着いてきているのか理由がわからないのは不気味ですよね.
コロナの影響と言えば,なんと我々のような零細事業者にも半導体不足の波が押し寄せています.自動車用のマイコン(コンピュータ)が不足していることから,自動車の減産が行われていることは報道されている通りなのですが,メディアアート作品に使うマイコンやトランジスタのような半導体までも極端に不足しています.僕もいま流通在庫をかき集めているところです.聞くところによるとアップルも調達に苦労しているそうなので,まして我がパイナップルでは…
今週お届けしたガロアの不運のうち,失恋は誰でも経験のあることかもしれません.しかし論文を3回も無くされるのは…あーっ,僕もあります.多分,僕も3回.もちろん,ガロアの論文とは月とすっぽんのすっぽんのほうなのですが.

今週も最後までお読みいただきありがとうございます.メールでお読み頂いた皆様は,よろしければボタンを押して行ってくださいませ.(ボタンは匿名化されています.集計したデータはこのニュースレターの内容改善以外には用いません.)
では,また来週,お目にかかりましょう.
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TEDxSaikaiファウンダー・パイナップルコンピュータ代表・長崎大学情報データ科学部教授
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