アメン神殿の塩が変える(かもしれない)エネルギーの未来【第66号】
【140字まとめ】古代ローマ人たちは,リビア・エジプトの「アメン神殿」から取れる「塩」を珍しがって重宝しました.この「アメン神殿の塩」(サル・アモニアクム)が「カーボン・ニュートラル」の切り札になるかもしれません.この記事ではその他に,ヤリイカの飼育に成功したある脳科学者の話もお届けします.
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いちです,おはようございます.
2017年に落合陽一先生をお招きした講演会を開いたときのブログ記事が,落合先生ご本人によってツイートされたために今週再び拡散されました.
講演会の開催や登壇はコロナ以降ほとんどしていませんが,徐々にこういった活動も再開していきたいですね.
さて,今週は古代エジプトの「アメン神」の名を受け継いだ化学物質「アンモニア」に関する話題です.アンモニアは世界の農業も,戦争も一変させてしまった物質で,そして「カーボン・ニュートラル」の切り札になるかもしれない物質です.
是非お楽しみ下さい.
目次
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アメン神殿の塩
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アンモニアは臭い
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「全ての水産生物の未来を変えた」脳科学者の話
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アンモニアでカーボン・ニュートラル!?
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ブルー水素は水色?
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おすすめ書籍:地球の未来のため僕が決断したこと〜気候大災害は防げる
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おすすめTEDトーク:CO2排出量マイナスの国,ブータン
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Q&A
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一伍一什のはなし

アメン神殿の塩
現在のリビアに,古代ギリシアの都市「キュレネ」がありました.都市国家として独立したあと,エジプトのプトレマイオス朝,そしてローマ帝国へと組み込まれていきます.「シルフィウム(Silphium)」という薬草の生産が主な産業だったようなのですが,シルフィウムは現存していません.記録によれば,媚薬として使われたとも,避妊薬として使われたともあります.もしそうだとしたら,キュレネに大変な利益をもたらしたのでしょう.シルフィウムは現在の「オオウイキョウ」英語では「ジャイアント・フェンネル」の一種ではなかったかと言われていますが,確かなことは分かっていません.キュレネはローマ都市として再建された元ギリシア都市として,ユネスコ世界遺産に登録されています.

そんなキュレネを含む行政区を,ローマ帝国は「クレタ・キュレナイカ(キレナイカ)属州」としていました.この地はエジプトに近く,エジプトの太陽神であるアメン(アムン,アモン)と,ローマの最高神であるユピテルを祭ったユピテル・アメン神殿がありました.
このユピテル・アメン神殿で取れる「塩」のことをローマ人たちは「サル(Sal)・アモニアクム(Hammoniacum)」と呼びました.これは「アモンの地の塩」という意味です.アモンの塩は,我々が食卓に置く「塩化ナトリウム」ではなく,現代の言葉で言えば「塩化アンモニウム」であったと,古代ローマの博物学者プリニウスは語っています.
塩化アンモニウムは食品添加物として認められており,フィンランドの「サルミアッキ」にも用いられています.僕も何度かもらって食べたことがあるのですが,食の「多様性」を知る良い機会になりました.ああ,つまり,僕にはまずかったという意味です.
アメリカの鉱山エンジニアであり,第31代大統領になったハーバート・フーバーは,ユピテル・アメン神殿の「塩」はただの塩化ナトリウムではなかったかと著書でコメントしているので,ひょっとしたらプリニウスが誤解していたのかもしれません.しかし,プリニウスが「アモンの地の塩」と呼んだことから,我々が現在「アンモニア」と呼ぶ物質の名前が決まったのです.
塩化アンモニウムは,塩素とアンモニアが結合した物質です.
アンモニアは臭い
僕の祖母は書家だったのですが,薬剤師の資格を持っていました.アーティスト兼薬剤師というのは一番危険な組み合わせで,どうやらアーティスト仲間に勝手に「薬」を処方していたようです.あかんがな…
そんなわけで自宅には,まあ色々と薬品があったわけです.
僕がまだ「手のひらで薬瓶の開口部を扇ぐ」という「お作法」を知らなかった頃,アンモニア水の瓶の蓋を開けて直接匂いを嗅いで,悶絶したことがありました.
あれにはびっくりしました.
アンモニアは臭いのです.ええ,死ぬほど臭いのです.サルミアッキの比ではありません.簡単に言うと「おしっこ」の匂いですね.アンモニアは日本では「特定悪臭物質」に指定されています.
先週,福井県越前町に漂着したダイオウイカを食べた男性の話題がニュースになっていましたが,アンモニアくさかったそうです.海のものはほぼ何でも食べてしまう日本人ですが,ダイオウイカの他にサメ肉もアンモニア臭いということで,余り食べられませんね.アイスランドには「ハカール」というサメ肉を発酵させた御馳走があるそうですが,強烈なアンモニア臭を放つそうです.食べてみたいような,みたくないような…

「全ての水産生物の未来を変えた」脳科学者の話
イカには「巨大軸索」と呼ばれる太い神経が通っています.そのため,脳科学(神経科学)のモデル生物としてイカは大変に重宝されています.とりわけ高級食材としても名高いヤリイカは,脳科学の研究に欠かせない存在です.
そんなヤリイカを安定的に確保することに世界で初めて成功したのが,脳科学の第一人者だった松本元でした.彼は「不可能」と言われたヤリイカの人工飼育に成功したのです.当時,イカの飼育は「イカが精神的ストレスを受けるから無理」と言われていたのですが,松本元は水槽中のアンモニア濃度が原因と考え,3年かけてアンモニア濃度をコントロールすることに成功し,イカの飼育方法を確立しました.
ノーベル賞を持つ動物行動学者コンラート・ローレンツは,かねてよりヤリイカを「人工的な飼育が不可能な唯一の動物」と呼んでいましたが,松本元がヤリイカの人工飼育に成功したことを聞いてすぐに見に来たそうです.そして「全ての水産生物の未来を変える」と評価しました.
アンモニアは多くの動物の体内で生成されています.また,動物の死体が微生物によって分解されるとアンモニアが生じます.しかしアンモニアそのものは臭いますし,分量が多くなると毒性を持ちます.
現在,ヤリイカの養殖はまだ採算に合わないようなのですが,他の海水魚の飼育や養殖に松本元のアンモニア除去技術が使われているそうです.脳科学と養殖という「異色のコラボ」ですね.
そんなアンモニアですが,いま「カーボン・ニュートラル」の切り札として注目を集め始めています.
アンモニアでカーボン・ニュートラル!?
日本政府は2050年までに「カーボン・ニュートラル」を目指すことを宣言しています.カーボン・ニュートラルというのは,二酸化炭素ガスなどの「温室効果ガス」の排出量と,森林管理などによる吸収量をバランスさせて,温室効果ガスの排出量を差し引きゼロにするという意味です.
もともと地中や地表にあった炭素(カーボン)成分を燃やすことでせっせと大気中に放出することが地球温暖化に繋がると言うことで,これまで放出しちゃった分は仕方ないとして,今後は放出量と回収量を一緒にしましょうということですね.
石炭,石油,天然ガスなどの地下資源はもちろん,森林だって地表面に「固定」された炭素成分ですから,これを燃やしてしまうと炭素の放出になります.炭素はよく燃える上に,保存しやすく,全世界的な流通網も発達しているため,なかなか炭素以外のエネルギー源が見つかりません.
一方,アンモニアもまた保存しやすく,全世界的な流通網が発達しています.アンモニアは窒素を含むため,同じく窒素を主成分とする肥料や火薬,染料の主要な原料になっています.人間だって大雑把に言えば酸素と水素と炭素と窒素の化合物ですから,窒素をぱくぱく食べないと生きていけないのです.
窒素はかつては「硝石」という鉱石がほとんど唯一の供給源だったのですが,1906年,ドイツのフリッツ・ハーバーとカール・ボッシュが,水素と空気中の窒素からアンモニアを作り出す方法を発明しました.ハーバーとボッシュはそれぞれノーベル化学賞を受賞しています.
ハーバー・ボッシュの方法は,水素さえどうにかして手に入れれば,あとは空気があれば良いのですから,無尽蔵にアンモニアを,ひいては肥料と火薬を作る方法として世界を一変させました.膨大な肥料は世界の食糧問題を大きく改善し,膨大な火薬は世界の紛争を長引かせる原因になりました.
アンモニアを「化学式」で書くと「NH₃」となります.これは窒素原子(N)をひとつと,水素原子(H)をみっつ,くっつけたという意味です.見ての通り,アンモニアには炭素(C)が入っていないので,燃やしても二酸化炭素(CO₂)が出てきません.おおお!温室効果ガス削減!これぞカーボン・ニュートラル!となりそうなのですが,そう簡単な話でもないのです.アンモニアは空気中では燃焼しないのです.
二酸化炭素を出さないというだけなら,もっと良い燃料があります.それが水素ガス(H₂)です.こちらはアンモニア(NH₃)よりももっと単純で,水素原子(H)がふたつです.ただし水素ガスは空気中の酸素分子と大変に仲が良く,簡単に結合します.その結果は大爆発です.こんなふうになります.

こちらはドイツの飛行船「ヒンデンブルク号」の爆発事故を収めた写真です.ヒンデンブルク号は浮揚のために水素ガスを使っていました.ただし水素ガスが引火の原因ではなく,静電気によってまず外皮の塗料が発火し,それによって水素ガスの爆発が引き起こされたと考えられています.とは言え,水素ガスの扱いの難しさは変わらないのですよね.
先ほど書いたとおり,アンモニアの生産,流通は世界的に確立しています.アンモニアというと「窒素の流通」というイメージがあるのですが,実は「どうにかして手に入れた」水素を流通させているとも言えるのです.そこで,水素をアンモニアにして運ぶ方法が,水素流通の「切り札」と考えられています.
ところで,水素をどうやって手に入れましょうか?
ブルー水素は水色?
地球上で一番水素がある場所は海です.海の主成分の水は水素ふたつと酸素ひとつ,つまりH₂Oなので,これを分解すれば水素が手に入ります.
問題は,どうやって分解するかです.水を分解するにはエネルギーが必要です.
このエネルギーを,例えば火力発電で手に入れたとすると,火力発電所で炭素を燃やしたことになります.これでは結局,せっかく水素を手に入れても炭素を空中に放出したことになってしまいます.このようにして手に入れた水素は「グレー水素」と呼びます.
グレー水素の製造過程で排出される炭素を全量回収すると「ブルー水素」と呼ぶようになります.コストはかかりますが,少なくとも大気中に炭素を放出しなくはなります.
そもそも火力発電を使うから炭素の回収をしないといけないのであって,水力や風力,太陽光などの再生可能エネルギーを使って水を分解すれば炭素は排出されません.このようにして作られた水素を「グリーン水素」と呼びます.
炭素を排出しない発電としては,原子力発電もあります.原子力発電によって得られた電気で作られた水素は「イエロー水素」と呼びます.
どれも無色透明の水素ガスなのですが,色をつけて呼び分けるわけですね.これらの色はアンモニアにも引き継がれて「グリーン・アンモニア」「ブルー・アンモニア」のような呼び方がされています.
日経新聞の報道によると,水素1キログラムあたりの生産コストはグレー水素で1ドル,ブルー水素で2ドル以下,グリーン水素で5ドル,イエロー水素で2.5ドルとのことです.グリーン水素が意外と高コストなんですね.
現在はエネルギーを石炭,石油,天然ガスのような「地中から掘り出した炭素」に頼っていますが,将来は水から作った水素と,空気から抽出した窒素を結合させたアンモニアに頼ることになるかもしれません.
古代ギリシア人は,世の中を構成する物質は「水」「空気」「火」「土」という四種類の「ストイケイオン」日本語で「元素」から出来ていると考えました.古代ギリシア人たちは,物質をもうこれ以上無理と言うまで細かく刻んだものを「アトモス」日本語で「原子」と呼んだので,元素と原子の区別をしていたのですね.
アメン神殿の塩は「土」から取っていたでしょうから,アトモスとしては「アメン神殿の塩」,ストイケイオンとしては「土」と古代ギリシア人は考えていたかもしれません.でもその実態は「水」の水素と「空気」の窒素から出来ていたのです.そしていま,エネルギーつまり「火」の運び手として,アンモニアは期待されているのです.
おすすめ書籍
温室効果ガスの排出量をゼロにするしか,我々が生き残る道はない.「気候大災害」を回避するために,ビル・ゲイツは政治・経済・科学のあらゆる側面から分析を進めてきた.10年の調査が結実し,パンデミックをも予期した著者の描く未来像が明らかに.20年ぶりの著作.
エンジニアであるビル・ゲイツらしい切り口で,気候変動に関する未来と,その対策を前向きに説明した書籍です.少し「脳天気」なところが気になりますが,具体的で面白かったです.
小泉進次郎元環境大臣も,このぐらい具体的な数字を言ってくれたら良かったのにと思います.「おぼろげながら浮かんできたんです,46という数字が」って,それあなた,僕の好きなウィスキーのことやがな.
おすすめTEDトーク
ヒマラヤ山脈に抱かれ,中国とインドという大国に挟まれた小国ブータンは,「カーボンニュートラル(CO2排出量ゼロ)の誓い」を常に守り続けてきました.ブータンのツェリン・トブゲ首相が,経済成長よりも幸福を重視し,環境保護の世界基準を作るというブータンのミッションについて語る,啓発的なトークです.
超大国インドと超大国中国に挟まれた小さな国ブータン.実は世界で唯一,カーボン・ニュートラルを達成しています.それどころか,二酸化炭素吸収量が排出量を上回る「カーボン・ネガティブ」なんだそうです.
洞察に満ちたトークをご覧になっては如何でしょうか.
Q&A
匿名質問サイト「マシュマロ」および質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今週は再び苺の質問を頂いたので,回答します.
いちごの中で好きな品種は何ですか?
それがですね!
最近「おいCベリー」にはまっているのですよ.小ぶりで,身がぎゅっとしまっていて,少し酸っぱくてですね,もうたまらんのです.
このレターの最後に匿名質問サイトへのリンクを貼っています.質問をお待ちしております.

ヒンデンブルク号の写真を見るたびに思い出す光景があります.カンボジアのアンコール遺跡で調査をしていたときのことです.上空から写真を撮影するために,僕が参加していた東大チームがヘリウムガスを手配しようとしたのですが,なんと「カンボジアにはヘリウムガスを扱っている業者は無い」ということだったんです.しかし,アンコール遺跡上空には観光客向けのガス気球が飛んでいました.我々が「あれは何だ?」と聞くと,現地の業者から「水素ガスに決まってるだろ」という返事が来ました.東大チームはベトナムからヘリウムガスを輸入しました.
それはさておいて,今週はYouTubeライブ番組「世界遺産の旅」で「ウクライナ」を取り上げてみました.
今週は「京都三条ラジオカフェ」の番組「李白の愛したサイエンス」の収録もしました.2月22日20時からオンエア&ポッドキャスト配信しますので,よろしかったらお聴き下さい.
今週は学生の修士論文発表もありました.いえ,こちらの方が本職ですね.入試スケジュールが立て込んだこともあって,こんなことになってました.

薄々は気づいていたのですが,なんか,大学てかなりブラックな職場になってきていないでしょうか.大きな大学や大都市の大学がブラックなのは昔からなのですが,日本の西の果てにある小さな大学までこうも忙しくなってくると,日本の未来が本気で心配になります.
さて,STEAMボート乗組員向けの【別冊】(水曜日配信)では「今週は『グリーン水素』について書こうと思ってます」と予告していたのですが,書いているうちにカーボン・ニュートラルに製造されたアンモニアを「グリーン・アンモニア」と呼ぶことを知り,ほぼゼロから書き直しました.水素の話を期待されていた乗組員には申し訳ありませんでした.
来週のテーマは全くの白紙なのですが,千葉工大の論文 The manufacture and origin of the Tutankhamen meteoritic iron dagger (ツタンカーメンの隕鉄剣の出自と製造)が大変面白かったので,いつか「ツタンカーメンが手にした天と地からの贈り物【第6号】」の続編を書きたいと思います.

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