棋士「藤井聡太」が戦う世界【第60号】
【140字まとめ】将棋や西洋のチェスのルーツは古代インドの「チャトランガ」というゲームだと考えられています.チャトランガ系のゲームの特徴は「運」の要素が無いこと,全ての情報がオープンになっていることなどです.これ,推理小説や数学の問題と似ていますよね?実際,将棋は数学の一分野なのです.
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さて,2022年1月9日から10日にかけて将棋の「第71期王将戦」第1局 が開かれます.対局するのは渡辺明(名人,棋王,王将)と藤井聡太(竜王,王位,叡王,棋聖)という,現代を代表する棋士のお二人です.
渡辺名人,藤井四冠とも中学生で四段になった元スーパー中学生で,最高位である九段になったのも渡辺名人が21歳7ヶ月,藤井四冠が18歳11ヶ月とその時代の最年少記録を持っています.
しかも現在絶好調同士のお二人なので,どんな勝負になるのか,楽しみですね.
というわけで,今週は将棋をテーマにお送りします.今週は最後に「読者アンケート」があります.最後までお目通し頂ければ幸いです.
《目次》
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将棋というゲームのはじまり:チャトランガ
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ゲームが数学になったとき:ゲーム理論
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将棋AIの登場
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おすすめ映画:ビューティフル・マインド
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おすすめTEDトーク:理解するためのゲームという手段
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Q&A
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一伍一什のはなし
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読者アンケート!どこでニュースレターを読んでいますか?

将棋というゲームのはじまり:チャトランガ
現在我々が知っている将棋は,正式には「日本将棋」あるいは「本将棋」と呼びます.というのも,将棋には歴史的にも世界的にも多数のバリエーションがあるため,区別する必要があるからです.日本でも15から16世紀頃(室町時代)までは「小将棋」という,本将棋とは異なる将棋が指されていたことがわかっています.小将棋には,現代では失われている「象」という駒が使われていました.
将棋のルーツは古代インドの「チャトランガ」というボードゲームです.チャトランガは6世紀ごろに遡ると見られています.戦争好きの王に戦争をやめさせるために高僧がチャトランガを考案したという説もあるのですが,この話は少し出来過ぎかもしれません.
チャトランガのルールは失われているのですが,盤面は本将棋とよく似ています.駒は王(本将棋の王将と同じ),兵(本将棋の歩兵と同じ),車(本将棋の飛車と同じ),馬(チェスのナイトと同じ),象(本将棋の銀将と同じ),臣(本将棋の銀将と同じで前進が出来ない)の6種類と考えられています.
また本将棋と同じく,二人のプレイヤーが交互に駒を動かしたと考えられますし,盤面は両プレイヤーにオープンになっています.一方,小将棋には「持ち駒」ルールが無かったことから,チャトランガにも持ち駒ルールは無かったと考えられます.
チャトランガから西洋のチェスも生まれています.チェスが現在のルールになったのは16世紀頃とされています.将棋とチェスが似ているのは,ルーツが同じだからなんですね.チェスには持ち駒ルールがありませんが,本将棋の持ち駒ルールを真似た「クレイジーハウス」という変則チェスも存在します.
国連の「世界チェスの日」のページによると,チェスのプレイヤーは世界で6億人いるそうです.そのうち,人気のオンラインチェスサイト chess.com に登録しているのがおよそ7,700万人いるのですが,同サイトでクレイジーハウスをプレイしようとするとなかなか対戦相手が見つからないそうです.クレイジーハウスはマイナーゲームなのですね.
本将棋の人口は,日本将棋連盟によると1,200万人です.本将棋の他に持ち駒ルールを持つボードゲームは(ほぼ)無いので,国外から見ると驚きのルールと言えるでしょう.
実際,太平洋戦争の直後,GHQが本将棋の持ち駒ルールを「捕虜虐待」として,本将棋そのものを禁止しようとしました.将棋ファンの間では有名な話ですが,伝説の棋士,実力制第四代名人「升田幸三」は「チェスは捕虜を殺害している.これこそが捕虜虐待である.将棋は適材適所の働き場所を与えている.常に駒が生きていて,それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」とGHQに直談判し,将棋禁止を撤回させたと言われています.
升田幸三は次々と新しい手を考え出したことでも知られ「将棋というゲームに寿命があるなら,その寿命を300年縮めた男」とも呼ばれています.
将棋の寿命,いったいどのぐらいなのでしょう.このニュースレターの後半で考察してみます.
ゲームが数学になったとき:ゲーム理論
本将棋やチェスのことを,数学者は「二人零和有限確定完全情報ゲーム」と呼びます.長い名前ですね.分解してみます.
「二人」はプレイヤーが二人であることを示します.
「零和(れいわ,ゼロわ)」は,片方のプレイヤーが得をすると,もう片方のプレイヤーが同じだけ損をするという意味です.二人の「利得」つまりは勝ち具合を足すといつも零になるから,零和と呼びます.ゼロサムとも言いますね.
「有限」は,ゲームが有限の手数で終了することを意味します.
「確定」はサイコロのような乱数要素が無いことを意味します.
「完全情報」は全ての情報が両方のプレイヤーに公開されていることを意味します.例えば「ババ抜き」は相手に手札を見せないので「不完全情報」ゲームになります.
「二人零和有限確定完全情報ゲーム」の他の例としては,オセロゲーム(英語名リバーシ)があります.現在のオセロの直接の起源は日本の長谷川五郎による1970年頃の発明ですが,19世紀のロンドンに元となるアイディアがあったとする説もあります.
それはともかく,この「二人零和有限確定完全情報ゲーム」は,理論上は完全な先読み,つまり「完全解析」が可能です.オセロに関して言えば,20世紀後半から既に生身の人間がコンピュータに勝つことがほぼ不可能になっています.人間が1手を指すと,コンピュータが次に可能な手(2手目)を全て検索し,それに対して人間が指せる全ての手(3手目)を全て探索し…ということを瞬時に行い,コンピュータが一番有利になるような手を出します.当時,たかだか16ビットのパソコンに中盤で「あと○○手であなたの負けです」なんて宣言されて,凹んだことを僕も思い出します.2019年には逆に,人間が負けることが難しい「最弱オセロ」まで登場しています.ただし,通常の8x8のオセロはまだ完全解析はされておらず,人間にもチャンスはあるそうです.

「エヴァンゲリオン新劇場版: Q」より「31手先で君の詰みだ」のシーン
1996年,IBMが開発したチェス専用コンピュータ「ディープ・ブルー」が最強の人間チェスプレイヤー,ガルリ・カスパロフと対戦しました.カスパロフは3勝1敗2引き分けでディープ・ブルーに勝利したのですが,ともかく1局はコンピュータが人類代表を破ったことはショッキングな事件でした.
ゲームを数学の問題と捉えて研究する学問を「ゲーム理論」と呼びます.ゲーム理論の確立には,その才能の異次元さから「火星人」とも呼ばれた数学者ジョン・フォン・ノイマンや,映画「ビューティフル・マインド」のモデルになったジョン・ナッシュらの貢献が大きな役割を果たしました.
コンピュータチェスも,ゲーム理論の一分野に数えられます.
将棋AIの登場
チェスには持ち駒ルールが無いため,終盤戦の完全解析が本将棋よりも実施しやすく,残り7駒以下の盤面はすべて解析されデータベース化されています.これでは人間は勝てませんね.また,チェスの序盤も過去の人間の指し手が巨大なデータベースになっており,コンピュータチェスはこの序盤データベースから良さそうな手を選んで指してきます.
本将棋の場合は,盤の他に持ち駒を乗せる駒台が用意されています.しかし駒台の上をお互いに見ることが出来ますから,チェスと同じく「二人零和有限確定完全情報ゲーム」なのです.つまり,理論上はコンピュータが最終手まで先読みを行えます.
理論上は,なんですよね.
本将棋の場合,チェスに比べても可能な指し手の組み合わせが非常に多く,最終盤にならないとコンピュータでも最後まで読み切ることは難しいのです.そのため,2005年頃までのコンピュータ将棋では,無駄な探索をしないようにいかにチューニングするかに設計者は心血を注いできました.
流れが変わったのは日本人の化学者,保木邦仁が開発したコンピュータ将棋 “Bonanza” が登場してからです.保木はなんと将棋の「素人」であることを自認しています.彼は「将棋もチェスも同じじゃね?」と思って,コンピュータチェスを応用して開発してみたそうです.コンピュータチェスは序盤に大量の棋譜データを使うのですが,Bonanzaも将棋の棋譜データベースを利用しました.また,チェスに比べて差し手の組み合わせが大きくなるにもかかわらず,チェスと同じように差し手の全幅探索を行っていました.全幅探索を最終手まで続けるのが完全解析ですが,Bonazaも流石にそこまではしていません.
2005年6月,保木はBonanzaバージョン1.0を公開します.これにすぐに反応したのがプロ棋士の渡辺明で「10秒将棋だと10回に1,2回はやられる」と話しています.2006年5月には強豪コンピュータ将棋が居並ぶ第16回世界コンピュータ将棋選手権大会になんとノートパソコン1台とUSB扇風機だけという超軽装備で初出場し,優勝を勝ち取っています.
Bonanza以降,徐々に「コンピュータ将棋」は「将棋AI」と呼び変えられるようになっていきました.
人間がコンピュータ(AI)に勝てなくなったときをそのゲームの寿命とするならば,オセロの寿命は100年,チェスの寿命は500年余りということになるのでしょう.あるいは,ゲーム理論が整備され,コンピュータが生まれた1950年頃を起点とすると,オセロの人間トッププレイヤーが生き延びたのは40年,チェスのそれは50年ぐらいだったのかもしれません.
ゲーム中に現れる局面の数を比較すると,オセロが10の60乗,チェスが10の120乗,将棋が10の226乗と言われています.コンピュータの「読み」が10年で10の60乗倍増えるのだとすると,将棋のトッププレイヤーの寿命が尽きるのはオセロから28年後の2018年だったということになります.なんとなく,将棋ファンの肌感覚と合致していませんか?
とは言え,人間対人間の繰り広げるゲームはまだまだ熱いです.
今週末から始まる「王将戦」は,Bonanzaバージョン1.0の時代から将棋AIを熟知する渡辺明と,ときに「将棋AIの歴史にも名を刻んだ」と言われる藤井聡太の戦いになります.
どんな戦いになるのか,楽しみですね.
おすすめ映画

Universal Pictures
実在した天才数学者ジョン・ナッシュの絶望と奇跡の半生を描いた感動のヒューマンドラマ.1947年秋,ジョン・フォーブス・ナッシュ・ジュニアはプリンストン大学の大学院にいた.全てを支配する真理,真に独創的な着想を見つけたいと数学の研究に没頭する.数年後,あるひらめきから彼は古典経済学の創始者アダム・スミスが打ち立てた経済理論を覆す新理論にまで到達するが…
ゲーム理論で著名な業績を残した数学者ジョン・ナッシュを描いた作品です.彼の理論は経済学にも大きな影響を与え,ナッシュは1994年にノーベル経済学賞を共同受賞しています.
ただ,それを脇に置いておいても楽しめる作品になっています.
おすすめTEDxトーク

TEDxPhoenix
複雑な悲劇を,人に伝えるのは簡単ではありません.娘が学校から帰ってきて奴隷制について尋ねた時,ゲームのデザイナー,ブレンダ・ブレスワイトは仕事でやっていることを家でやってみました.物語を理解させる事でゲームがもたらした驚くべき効果などについてTEDxPhoenixで語ります.
ゲームは物の見方を変えることも,自分自身の見方を変えることも出来るというメッセージでした.
こう考えると,チャトランガをデザインしたインドの高僧の話も,荒唐無稽とは言えないのかなとも思います.
Q&A
匿名質問サイト「マシュマロ」および質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今回は昨年末に頂いたご質問から.
今年(2021年)一年を漢字一文字で表すとしたら?
一年の漢字...難しいですね.2021年はほぼ長崎から出なかったのですが,そのぶん「壱岐」「対馬」「五島」「小値賀島」「無人島田島」を行き来していますし,住んでいるのも「出島」対岸なので,2021年は「島」!
このレターの最後に匿名質問サイトへのリンクを貼っています.質問をお待ちしております.

ご報告が遅れましたが,昨年末の「クリスマスツリー」の展示が完了しました.展示はルーセント・デザインさんによるものですが,僕たちが設計しているパイナップル・コンピュータが使われています.あと,半導体不足のなか無理矢理製造していただいた「ねこびっと」さんのパーツも組み込まれています.写真だと全く伝わらなくて残念なのですが,蝋燭のように「ゆらゆら」光らせるために,光量の制御に「ロジスティック写像」という数学を使っています.
年末年始の間に,英語版STEAMニュースである “The STEAM” をオンラインプラットフォームMedium上で本格的に始動しました.始動後2週間で,しかも有料記事(Medium全体で月2本まで無料)なのですが,500ビューほどのアクセスがありました.各記事は2,000から3,000語で,完読率は30パーセント前後でした.これは悪く無い数字のようです.ただ,英語圏は読み手も多いですが,書き手も桁外れに多いため,収益の方は記事あたり100円ほど行けばいいかなあぐらいです.ご興味のある方がいらっしゃれば,今後もレポートしますね.
2022年は,このニュースレターと連動しているポッドキャスト STEAM.fm にも注力していく予定です.STEAM.fm ではこのニュースレターの朗読に加えて,後日談みたいな内容もお話ししています.2021年初頭に実験的に始めた番組なのですが,1年間で3,000回ほど再生されました.
一方で,2020年から続けていたYouTube動画と,その音声版のポッドキャスト(Kanayafrica)の運用は昨年末で一旦終了としました.こちらは,動画がトータル約10,000再生,音声がトータル約3,000再生でした.動画を撮るのは楽しいのですが,それなりに時間がかかってしまうため,だんだん手が回らなくなってきました.入試が一段落したら,今度はVlog(ビデオブログ)チャンネルとして再スタートさせても良いかなあと思っています.別チャンネルでお送りしているライブ番組「世界遺産の旅」は今後も継続予定です.
それから,今年1月1日に,新しい研究室を公式に立ち上げることになりました.研究室の立ち上げはもう何度目かわからないのですが,ちゃんと名前をつけようと思って Media Art and Design Lab. にしました.略して madlab です.学生,研究パートナー (mad scientist) を随時募集しています.

読者アンケート!どこでニュースレターを読んでいますか?
今週も最後までお読みいただきありがとうございます.
ここで皆さまに質問です!是非,該当するボタンを押していってください!(ボタンは匿名化されています.集計したデータはこのニュースレターの内容改善以外には用いません.)
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では,また来週,お目にかかりましょう.
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ニュースレター「STEAM NEWS by Ichi」
金谷一朗(いち)
TEDxSaikaiファウンダー・パイナップルコンピュータ代表・長崎大学情報データ科学部教授
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