それ,PDFで送ってください【第143号】
2️⃣当たり前のように見えるこのPDFファイルの性質は,実は特別な仕掛けによって実現されています
3️⃣PDFの元になったPostScript(ポストスクリプト)を開発したジョン・ワーノック博士の情熱はスティーブ・ジョブスへと受け継がれました
いちです,おはようございます.
今週は誰もがお世話になっている「PDFファイル」のお話です.

Adobe
当初は「インターネットに印刷する」という,理解しやすいようで実はまったく理解不能なコンセプトで売り込まれたPDFファイル形式ですが,いまやデザインやビジネスに無くてはならないものになりました.
そんなPDFファイルの背景には,深淵な洞察と,美への限りない追求があります.デザイナーが大好きなMacやiPhoneの画面がきれいなのも,背後にPDFの技術があるおかげなんです.
テクノロジーとアートの交差点にあるPDFファイルのお話を楽しんでいってください.
📬 STEAM NEWS は国内外のSTEAM分野(科学・技術・工学・アート・数学)に関するニュースを面白く解説するニュースレターです.
《目次》
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PDFのひみつ
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画像じゃ駄目なの?
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フォントをアウトラインにしてくださいね
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ワードじゃ駄目なの?
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PostScritp(ポストスクリプト)じゃ駄目なの?
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今週のTEDトーク
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Q&A
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一伍一什のはなし
PDFのひみつ
「それ,PDFファイルで送ってください.」
電子ファイルのやりとりをするときに何度も聴く台詞ですよね.でもPDFってそもそも何なのでしょうか?
PDFはポータブル・ドキュメント・フォーマットの略で,アドビ(Adobe)社が開発したファイル形式です.PDFファイルだと,PCで見ても,スマホで見ても,印刷しても同じ表示品質が保持されます.
当たり前のように感じられますが,実はこれって「すごいこと」なのです.
「そんなん画像ファイルでも一緒やん」て,誰もが一度は思うところでしょう.ところが,画像では駄目なのです.
画像じゃ駄目なの?
ふだん僕たちが「デジタル画像」や略して「画像」と呼ぶものは,専門的には「ラスター画像」と呼びます.ラスター画像というのは,画素(ピクセル)を敷き詰めたもので,うーんと拡大していくと画素を見ることができます.
むかーしのファミコンのゲーム画面を思い出していただくとわかるのですが,昔は画素が大きくて,画素ひとつひとつを目視で確認できました.その結果生まれたのが「ドット絵」というジャンルですね.
現代のコンピューター画面やスマホ画面は画素がとても小さくなっていますから,肉眼で画素を見ることは困難です.とはいえ,今となっては低解像度とも言える「フルHD」規格だと横1920画素,縦1080画素ですから,幅が1メートル程度あるテレビ画面だと1画素あたり0.5ミリメートル幅になるため,若者が目を近づければ見ることができます.
ラスター画像は,緻密なドット絵だと思えば良いのです.
十分緻密なドット絵を作っておけば,印刷にも耐えられるでしょうか?
これはかなり難しい質問です.

松のドット絵(ドットタウン)
原理的に画素が見えるということは,画像を拡大していけばいつか「粗いドット絵」になってしまうということです.
印刷物を想像してみてください.A4用紙向けに作った書類も,倍サイズのA3用紙で印刷されるかもしれません.そもそも人間の目はなぜか紙に対しては驚くほど解像度が高く,フルHD程度の画素数だとA4用紙に印刷した場合画素が見えちゃいます.
そんなわけで「いくら拡大しても画素が見えない」画像が必要になるのです.でも,そんなことが可能なのでしょうか?
デジタル写真ならば,拡大には上限があります.そのためにできるだけ画素数の多いデジカメで撮影しておくのですね.しかし,デジタルのイラストや,究極のイラストとも言える「文字」ならば,無限に拡大できる画像を作ることができます.それを「ベクター画像」と言います.
ベクター画像とは,数式で描かれた曲線を重ね書きしたものです.

数式で曲線を描いた例(CorelDRAW)
アドビ「イラストレーター」やマイクロソフト「パワーポイント」は,ベクター画像をお絵かきするソフトウェアです.
「えー,わたしイラレ使ってるけど数式なんて書いてないもん」
と思いますよね.そのとおりです.ソフトウェアが絵描きさんの代わりに数式を書いてくれているのです.
高校数学で「関数とグラフ」を習ったことを覚えていらっしゃるでしょうか.まさにこの数学が使われているのです.アドビ「イラストレーター」の開発者は「関数とグラフ」をMacの箱の中に隠すことによって,誰でも数式を「描く」ことができるようにしました.
こうして描かれたベクター画像のファイル形式のひとつがPDFなのです.なおPDFは写真も貼り込めるように,ラスター画像も扱えるように設計されています.
フォントをアウトラインにしてくださいね
皆さんのなかにはグラフィックデザイナーもおられるでしょう.
アドビ「イラストレーター」でポスターをデザインして,印刷所に入稿して……ああああああ! なんで入稿後にミスに気づくんや……というご経験も一度ならずおありでしょう.(僕はあります.)
またときに印刷所から電話がかかってくることもあるでしょう.「お客様,フォントがアウトライン化されていないようですが」と.
「イラストレーター」はあなたが描いた曲線を数式に置き換えてPDFファイルに埋め込みます.しかし文字に関しては「文字コード」のままにしておきます.というのも,文字のかたちを数式に置き換えてしまうと,もはや文字ではなく「模様」になってしまうからなのですね.模様で良い場合もあるのでしょうが,文字は文字のままでないと,文章を編集したり検索したりするのに不便です.1文字挿入するたびに,模様を全部ずらすのってやってられませんものね.
しかし,文字が文字のままだと印刷所は困ります.デザイナーの手持ちの文字の字形つまり「フォント」と,印刷所が持っているフォントが一致しないことがあるからです.「似てるからええやん」ではすみません.「絶対フォント感」を持っているデザイナーは結構多くて,似て非なる字形は一瞬で見抜かれます.
そこで印刷所はデザイナーに「文字を全部イラストにしてしまってくれ」つまり「字形を数式にしておいてくれ」と頼むのです.これを「フォントのアウトライン化」と呼びます.

左:アウトライン化されたフォント,右:ラスター画像(ビットマップ)のフォント(賢者の印刷用語集)
イラストになった字形も数式で表現されていますから,いくらでも拡大できます.便利ですね.
ワードじゃ駄目なの?
ところで,事務書類に関して言うと,マイクロソフト「ワード(Word)」でやり取りすることが多いのではないでしょうか.かく言う僕も毎日ワードでかたかたと文章を書いています.
議事録程度の文章ならばわざわざワードで書かなくても,メール本文で良さそうなものだと僕は思うのですが,とくにお役所関係は印刷保存する関係でしょうか,ワード(Word)で「清書してくれ」と言われることが多いです.まあ「一太郎でお願いします」と言われないだけましかもしれません.
それに,最近はワードファイルではなくてPDFファイルを最終成果物とするケースが多くなってきました.ワードではなくPDFにする理由として,ひとつは簡単に編集できないことが挙げられるでしょう.PDFだって電子ファイルなのですから編集はできるのですが,ワードほどカジュアルには出来ないということです.
そしてもうひとつ,PDFは最初から紙への印刷を考慮したファイル形式のため,レイアウト崩れを(あまり)しないという点も挙げられます.いやあ,ワードのレイアウト崩れ問題は,21世紀になってもまだ続いています.一方のPDFは元々ベクター「画像」のファイル形式であるため,大崩れはしないのですね.
というわけで,送信先が再編集しないのであれば,ワードよりもPDFにしておいたほうが安心です.
PostScript(ポストスクリプト)じゃ駄目なの?
PDFファイル形式は,アドビ社が開発したもうひとつのファイル形式「PostScript(ポストスクリプト)」から派生しています.PDFのデビューが1993年,PostScriptのデビューが1985年ですから,PostScriptのほうが随分と先輩ですね.実際,1990年代ごろまでは,ベクター画像をそのまま印刷できる実用的なプリンターと言えばPostScriptプリンターだけでした.当時の一般的なラスター画像を印刷するプリンターに比べると,ベクター画像を印刷できるプリンターの出力はとぉっても美しいものでした.
また,スティーブ・ジョブスが開発指揮を取った「ネクスト(NeXT)コンピューター」は,プリンターだけではなくディスプレイもPostScriptを使ったベクター画像で表示していました.ここまで来ると,狂気の美意識と呼んでも差し支えないでしょう.
そんないい事づくしに見えるPostScriptですが,実はある欠点を持っていました.いや,欠点ではなく利点だったのですが,ファイル形式としては厳しかったのです.それはPostScriptが完全なるプログラミング言語であるということです.そうなんです,JavaとかPythonとかと同じプログラミング言語の一種なのです.
プログラムが必ず停止するかどうかは,事前にはわかりません.ということは,PostScriptがベクター画像を描き始めたとき,確実に描き終わる保証がないのです.
そんな馬鹿な……と思わるかもしれませんが,PostScriptの開発者,アドビ共同創業者のジョン・ワーノック博士は,それでもPostScriptに最大の柔軟性を持たせるために,完全なるプログラミング言語として設計をしました.
一方,PostScriptをもとに作られたPDFは,プログラミング言語としての機能が剥ぎ取られています.そのかわり,PostScriptよりも高速に,かつ確実に,1枚の紙を印刷し終えるように再設計されました.
スティーブ・ジョブスがアップルに復帰したときに,彼はPDFをもとにしたQuartz(クォーツ)という表示システムをMacに搭載させました.Quartzはベクター画像を描画するシステムで,後にiPhoneやiPadにも移植されました.
アップル製コンピューターの画面が少しきれいに見えるのは,ジョン・ワーノック博士の設計と,スティーブ・ジョブスの執念の結果なのです.
今年(2023年)8月19日,ジョン・ワーノック博士は82歳で亡くなりました.
彼の功績を偲んで,そのほんの一部をご紹介させて頂きました.
今週の書籍

Amazon
画像処理の基礎理論から手法,アルゴリズム,各分野での応用事例まで盛り込んだ専門書.サンプルイメージを数多く使った構成で,さまざまな画像処理をわかり易く解説しています.※画像処理エンジニア検定エキスパート対応
デジタル(ディジタル)画像の基礎を勉強したい人に,僕がまず紹介する書籍がこちらです.基本的な内容が網羅されているので,最初の一冊として最適です.ただし,ベクター画像に関する説明はありません.とくにPostScriptやPDFにご興味のある方は,こちらの専門書がおそらく唯一の日本語文献になります.
今週のTEDトーク

TED
本や雑誌やコンピュータ・スクリーンを眺めると,かなりの確率でマシュー・カーターがデザインした書体を目にするはずです.ヴァーダナやジョージア,電話帳(覚えていますか?)専用のベル・センテニアルをはじめとする書体をデザインしたのが彼です.この魅力的な話では,フォントに含まれる全ての文字の1ピクセルに至るまで神経を集中してきたキャリアの全容を紹介してくれます.
文字デザイナーが,どれだけ文字に心血を注いでいるのかがわかるTEDトークです.是非ご覧になってください.
Q&A
匿名質問サイト「マシュマロ」および質問サイト「Quora」で質問を受け付けています.普段はツイッターでお返事を書いていますが「ニュースレター読んでます」と入れていただければ,こちらのニュースレターでより長めの回答を書かせていただきます.
今週はこちらの質問から.
いわゆる「四時間の壁」.あなたは新幹線の場合何時間まで許容できますか?
長崎〜京都の5時間前後の乗車はわりとよくしています.あ,ちょい見栄を張りました.途中でいちど在来線特急をはさみます.地理的にはもう少しでつながる距離なのに,惜しい……
新幹線は座席が広いので,長崎〜東京の6時間半も耐えられそうです.ていうか,長崎江戸が半日って,文明どれだけ進んでいるんですか.陸路でおよそ1,200キロメートルですよ.アレクサンドリアからアスワンまでの距離に匹敵します.いや,余計にわかりにくいですね.ヨーロッパで例えると,パリからマドリードまでがおよそ1,200キロメートルです.国境を超えずに1,200キロメートル進める国って,ヨーロッパだとロシアだけではないでしょうか.
日本て案外と広いですね.
一伍一什のはなし
読者の皆さんは抱えているプロジェクトをどのように管理されているでしょうか?
僕は単発のタスクはThingsというアプリで管理し,ちょっとしたプロジェクトはTrelloというウェブサービスで管理しています.Trelloというのはカンバン方式をウェブ上で実現したもので,著名エンジニアのジョエル・スポルスキが開発したものです.
最近,このTrelloに機能追加するプラグインでカンバンつまりプロジェクト数を数え上げるものを見つけました.いままで意図的に数えないようにしていたのですが,プラグインが代わりに数えてくれるならいいかと思ってインストールしてみました.で,結果ですが「実行中」のプロジェクトが(単発のタスクを除いて)35本,「実行可能」のプロジェクトも35本ありました.他に「企画中」のプロジェクトがだいたい両者の合計ぐらいありました.
プロジェクトがいつ終了するのか判定するアルゴリズムも欲しいところです.
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では,また来週,お目にかかりましょう.
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ニュースレター「STEAM NEWS」
金谷一朗(いち)
TEDxDejima Studioファウンダー・パイナップルコンピューター代表・長崎大学情報データ科学部教授
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